|
2018.1.19
No.26 「高山蝶のルーツを訪ねて」
高山蝶発見の歴史
高山性生物とは、本来は高山帯のみで全ライフサイクルを完結する種を指すべきであろうが、蝶類では慣例的にミヤマシロチョウ、クモマツマキチョウ、ミヤマ
モンキチョウ、オオイチモンジ、コヒオドシ、ベニヒカゲ、クモマベニヒカゲ、タカネヒカゲ、タカネキマダラセセリの9種類を高山蝶と呼んでいる。昭和初期
を風靡した蝶類同好会の会誌ZEPHYRUS創刊号の巻頭を飾る報文が高山蝶であった(図1)ように、発見当初から蝶類愛好家の熱い視線が注がれてきた。
高山蝶の発見は、日本アルプス登山史の黎明期と機を一にし、明治年間後半に集中している。当時のアルピニストの多くは博物学にも造詣が深く、日本山岳会設
立メンバー7人の中4人までが日本博物同志会の中心的人物であった。明治43年(1910年)、今の大町市扇沢から入り後立山、立山連峰を踏破する途中で
クモマツマキチョウとタカネヒカゲを相次いで発見した中村清太郎の「高山蝶発見物語」(田淵行男:高山蝶巻頭に再録,
1959)は、ガイドを伴い道なき山稜を走破するロマンに満ちた探検的登山事情を、熱い息吹と共に今に伝える名文である。ミヤマシロチョウ(1901
年)、クモマベニヒカゲ(1905年)、タカネキマダラセセリ(1915年)などが相前後して発見され、高山蝶という呼称は高野鷹蔵(山岳創刊号,
1906)が最初であるとされる。ベニヒカゲの発見は早くて、浅間山産に基づいて1877年に記載されている。
その後の研究で高山性生物と呼べるのはタカネヒカゲただ一種であることが分かったが、いまでも一括して高山蝶と呼び親しまれている。海外ではユーラシア大
陸の中緯度地帯の高標高地や、高緯度地帯では平地に広く棲息する種である。高山植物と同じように北方起源の生物で、日本列島が大陸と陸続きであった氷河時
代に日本列島へ渡ってきたと考えられている。しかしいつ頃の氷河時代なのか、またサハリンなど北方経由か、朝鮮半島経由かなど諸説が提起されてきた。
高山蝶との出会い
高山蝶を特別に意識したきっかけは雑誌「新昆虫」1956年7月号の「信州特集号」で、表紙にはハイマツに止まるタカネヒカゲの写真が載っていた。モノク
ロながら強く心惹かれるものがあり、高嶺に舞う高山蝶の姿を想像すると胸が高鳴った。実際に出会ったのはそれから数年後の大学時代で、中部山岳地方を採集
して廻り、多くの高山蝶に接することができた。
高度経済成長期もピークを迎えた頃には、お盆休みが社会で認知されるゆとりが生まれた。休暇を利用して家族と共に中部山岳や東北地方の山々を訪れると、こ
の時期には紅色の斑紋が鮮やかなベニヒカゲ(図2)が迎えてくれた。黄色や紫の高山植物に憩うその姿は、あの「信州特集号」の感動を蘇えらせてくれた。
各地の標本が集まってくると、同じ種でも斑紋などに地理的な変異があることに気がつく。そうすると次には変異を生み出した原因を知りたくなり、なぜこのよ
うな地理的分布をしているのだろうと次々と好奇心が湧いてくる。博物学への想いである。ベニヒカゲは地理的変異や個体変異に富んでいて、1950年代には
競うように亜種名がつけられ、命名規約上有効な亜種名は十数にものぼる。その変異に魅せられた研究者や愛好家が多く、古くから変異の系統と地理的分布に関
する考察が行われてきた。北海道産では♂に発香鱗があるが本州産にはほとんど認められず、また亜外縁の紅紋の出方にも顕著な差があって、別種説を唱える人
もいる。また東北地方の主要な高山に分布するにもかかわらず、八甲田山などの高山を擁する青森県に分布しないのも不思議である。
斑紋を数値化し統計処理によってその特徴を解析すれば、各地産個体群の系統関係を構築できる。その系統関係から分布拡大の方向性が探れないだろうか。休日
ごとに斑紋測定と統計処理を行い、とりあえず東北地方各地産の系統関係を多変量解析法でまとめた(1996)。さらに各地産の統計処理を積み重ねていく
と、同じ山系でも標高の高いところに分布する個体群は、サイズが小さく、ベニ紋が縮小し、眼状紋が小さくなるという法則性のあることに気が付いた。環境要
因が斑紋などの形質に少なからず影響しているようだ。これでは形質的な特徴を単純に処理して系統関係を云々することはできず、多変量解析の技法をいろいろ
組み合わせて総合的に評価する必要がある。やっと形質情報に基づく系統関係を構築することができたのは2013年のことである。後に述べる分子系統的な手
法による系統地理的結果と比較すると、上信越地域の一部を除けば両者がよく一致することが示された。斑紋変異は一見ランダムに生じているように見えるが、
適切な数理処理を施すことで過去に生じた系統に依存する変異傾向を抽出できたのである。最初に統計処理の報文を発表したのが1984年であるから30年の
歳月が経っていた。
本州のベニヒカゲの生息地のほとんどすべてを訪れて、その生息環境を観察していると面白いことが分かってきた。東北地方でベニヒカゲの生息する山々は、ブ
ナなどの広葉樹林帯の上部に通常は存在する針葉樹林帯を欠いており、代わりに偽高山性と呼ばれる草原が広がることで、標高が低いにも関わらずイネ科やスゲ
科を食草とするベニヒカゲの生息を可能にしている。焼石連峰や和賀連峰のように偽高山性草原の下限と、山の頂上との差が100-200mしかない山系があ
る。
2000年の頃までは、最終氷期以降の最も温暖な時期(ヒプシサーマル)には現在と比較して針葉樹林帯が約400m上昇していたというのが森林生態学界の
定説であったが、樹林帯が400mも上昇したら、棲息環境と共にベニヒカゲは絶滅したはずである。東北地方のベニヒカゲの分布状況には当てはまらないこと
を2001年に論文で指摘した。その後、偽高山性草原のある山々には、まだ針葉樹林が進出していないとする新たな学説が有力となり、東北地方のベニヒカゲ
の分布と整合がつくようになった。食植性昆虫は食草を含む植生環境だけでなく古地理や古気候を共有する生物との共存で生物相を形成しているので、フィール
ド・データを基に総合的に考えることの重要性を改めて感じさせられた。
ベニヒカゲの分布南限は南アルプスの南端地域になるが、この付近に位置する大無間山などは山塊全体が亜高山性針葉樹林で覆われている。一般的にはベニヒカ
ゲの生息できない環境であるが、沢沿いの狭い草地や、急峻な崩壊地の遷移途上の草付きが棲息を支えている。このような棲息環境は、北方性のベニヒカゲが温
暖期に生息地を縮小しながら生き残ったレフュジアの環境を連想させてくれる。
分子系統地理学との出会い
1970年代には日本列島の生い立ちと関連させて蝶の分布パターンを論じることが流行した。著名な蝶類研究家の白水隆氏は「列島と大陸を適当に分断・接続させれば、どんな分布パターンでも作れる」と安易な分布形成論の流行に警鐘を鳴らされた。
1995年頃から大澤省三氏らによるオサムシの分子系統解析が発表されるようになった。化石の残らない生物の進化の歴史が、現生種のDNAから辿ることが
できる、というのは誠に魅力的で、蝶の分野でも是非やってみたいとの思いに駆られた。その頃インターネットの情報サイトで、当時弘前大学におられた宇佐美
真一氏(現信州大学医学部教授)が分子系統解析のサンプルとしてベニヒカゲを求めておられたので、各地のサンプルをお送りした。またDNA解析技術を持っ
た知人の関口正幸氏と共同でベニヒカゲの研究を始めたところ新川勉・木暮翠両氏がすでに着手されている事を知り、合同で成果の一端を2000年に日本蝶類
学会誌に発表した。また2003年に基礎生物学研究所で開催された「昆虫の進化多様性と分子系統」研究会では、宇佐美教授が長野県の高山蝶について発表さ
れ、歓談する機会がもてたのは幸いであった。
そのようなご縁から、2004年に思い切って信州大学大学院博士課程(理学部伊藤建夫研究室)に入学し、松本市にアパートを借りて大学通いが始まった。
テーマはベニヒカゲの日本列島における分布変遷史の解明である。日本産のベニヒカゲの分布形成史は関口氏らと着手済だったので解明にはそれほど時間を要し
ないと思っていたので、計画発表では世界のベニヒカゲ属の分子系統も盛り込んだ。
松本市は東にピラミッド型の常念岳を主峰とする北アルプスの高峰が連なり、西には美ヶ原のなだらかな峰が横たわる。四季折々に見せる山々の姿は見飽きるこ
とがない。常念連峰は多くの高山蝶の棲みかで冬の間は冠雪するのに対して、美ヶ原は高山蝶が分布せず冬でもほとんど雪が積もらない。その対照的な佇まいを
みていると、高山蝶の分布と積雪に何か相関があると思えてならない。高山蝶の棲み家まで日帰り可能という恵まれた環境で、自分の娘より若い院生と共に進化
生物学を学ぶことは楽しかった。老化の進んだ頭脳で毎週のゼミをこなすのは大変であったが、若い同僚の院生はすべて先生役で呑み込みの悪い老人の面倒をよ
く見てくれたことは感謝に耐えない。3年間に学んだ進化生物学の知識はもちろんだが、何よりも地質学や古気候学について、それぞれ専門の先生から最新の学
説をお伺いできたメリットは限りなく大きい。常に進歩するジャンルの最新の知識はなかなか独学では得られないもので、大学(院)の存在意義はまさにこうい
う学際的知見の得られるところにあると思う。
ベニヒカゲのDNA解析については、宇佐美教授の許で管理されている長野県産のサンプルや、以前から収集していた標本が使用できたが、一部の地域産は再度
採り直さねばならなかった。なにしろ年一回、夏の一ヶ月弱しか発生せず、しかも高山帯まで登るには体力も必要であるし、なにより天気に恵まれなければ蝶は
飛ばない。また特別保護地域では許可が必要である。短期決戦のため伊藤教授と宇佐美教授をはじめ、松本むしの会の方々にも多大なご協力を頂いた。
調べてみるとベニヒカゲは約27万年前に、本州では南北2つの系統に分岐し、その後二回の氷河サイクルに対応して分布の拡大(寒冷期)・縮小(温暖期)を
繰り返したことが分かった。本州産は南アルプスと北アルプスのレフュジアで生殖的に隔離されたことで2系統に分岐し、その後分布を拡大する過程で東北地方
産と南アルプス産が北方系統に、白山を含むその他の中部山岳産が南方系統に分岐したのである。また南北2系統は、上越山系の谷川連峰で混生している事が分
かったが、その探索行は本誌No.7(2007)に書いた。
高山蝶のルーツを求めて
ベニヒカゲがひと段落すると、その他の高山蝶にも目が向いてきた。本州の高山蝶のルーツを探るうえでキーとなる地域は、もちろん日本列島の対岸に位置する
アムール地域と朝鮮半島北部周辺である。しかし、各種ごとに大陸での遺伝的変異のパターンを把握することは、列島への渡来時期や列島内での分布変遷の動態
を理解する上で重要である。
定年退職後の2000年を皮切りに、毎年ユーラシアと北米でサンプル収集に努め、高橋真弓氏には多くの調査行で同行させていただき、夜にはご高説を拝聴し
た。もちろん個人で広い大陸を網羅的に調査するわけにいかないので、多くの方からご協力を頂いたことはいうまでもないが、生来のコレクター気質は抑えがた
い。しかし、自ら実地調査を行うことの重要性は、フィールド・ワークを旨としておられる皆さんにはよくご理解頂けると思う。例えば、ミヤマモンキチョウに
は顕著な遺伝子型が2系統あって、各地で混生していることが判明したが、ヤクーティアのウスチ・ネラではピンポイントで同一の場所で採集したサンプルから
2系統が見つかった。同じ「混生」という表現でも、自ら採集したサンプルと、提供を受けたサンプルでは重みが異なるのである。
日本では高山蝶でも大陸では普通種だとよくいわれるが、広域分布種がかならずしも普通種とは限らない。オオイチモンジはアムール地域では豊産するが(図
3)、ヨーロッパのオオイチモンジなどはその部類でなかなか手に入らない。ブルガリアでの調査で、車で移動中に休憩していたら、たまたま生き残りの雌に遭
遇したなどは、まったく僥倖としか言いようがない。ヨーロッパ産で唯一のサンプルは、このとき得られたものだ。
本州産の高山蝶が、サハリン・北海道経由で北回りに到達したものか、朝鮮半島経由で南回りに渡来したものか。北方系の生物ということでなんとなく北回りを
考えてしまうが、別の視点が必要であることを指摘したのは黒沢良彦氏(高山の蝶たち、自然科学と博物館46(2),
1979)だ。氏は本州の高山蝶の多くが北海道に産しないことや、アムール地域産とは形態的に非常に変わった種があることなどから、一部の種は南回りで渡
来したのではないかと提起した。
サハリン産のサンプルについては、長らくサハリンの蝶相を探査されている朝日純一氏より多数のサンプルを提供していただき、2010年頃にはすべての種の
解析を終えており、いずれもアムール地域産と遺伝子的には変異が見られないことが把握できていた。これはどういうことだろう。サハリンから北海道へ渡来で
きなかったのか、あるいは渡来したが北海道では絶滅したか。または朝鮮半島経由なのだろうか。
いろいろ考えを巡らせていたが、転機は2012年に突然訪れた。サハリンでオオイチモンジが採集されたのだ。翌年には雌を含む複数頭が得られて土着種であ
ることが確定的になり、サンプルも提供して頂いた。結果は白帯の広い形態から推定された通り、アムール地域産と同一のハプロタイプで北海道産とは異なって
いた。北海道各地のオオイチモンジのハプロタイプは均一で、アムール地域と同一のハプロタイプは見出せないので、サハリンまで侵入した個体群は北海道へは
渡来できなかったのではないだろうか。
本研究会の第13回研究集会(松本市,
2016)の公開シンポジウムで、それまでの知見を発表した。既に論文として発表したベニヒカゲとクモマベニヒカゲは、高山蝶の中でも大陸産と日本列島産
の遺伝的分化は古く、数十万年から100万年くらい前に日本列島へ渡来したと考えられるのに対して、その他の高山蝶はもっと新しい時代に渡来したと推定さ
れる。渡来ルートも両者ではかなり相違があるようだ。その要因をいろいろと想像することは、初めて高山蝶に出会った少年時代の思い出につながって楽しい。
江崎悌三氏は「高山蝶小考」(ニュー・エントモロジスト2(1/2), 1952)の中で、「現在の分布は複雑であるが、その成因には偶然によるものが多いと考えられる」と書いておられるが、真に含蓄に富んでいるといわざるを得ない。
図1ゼフィルス創刊号の挿図(1929)
上からミヤマシロチョウ、クモマツマキチョウ、タカネヒカゲ
図2 交尾中のベニヒカゲ
上越山系、巻機山にて(池田真一郎氏撮影)
図3、空き缶に集まるオオイチモンジ
ロシア、コムソモリスク・ナ・アムーレ郊外にて
|
中谷 貴壽
湘南生物地理学研究所
(カナダ北西準州、北極圏のマッケンジー・デルタを背に)
|
2018.1.19
No.25 「昆虫採集から生物地理と“種”の問題へ」
高校で理科(生物)担当の教師をしていた私は1994年に定年退職し、現在は去年(2016年)静岡市に誕生した県立の“ふじのくに地球環境史ミュージアム”で昆虫類(蝶類)の標本・資料の整理を続けています(写真1)。
幼少期に過ごした山形県・三重県で虫採りを始め、その後、静岡市で1950年高校に進学し、生物部員として蝶類の採集・観察に没頭しました(写真2)。
高校時代に他校の生物部とも交流し、交換で集めた資料をもとに、「静岡県が暖かい海岸地帯から南アルプスや富士山の高冷地まで気候の変化に富み、さらに
ほぼ富士川を境界として、西に非火山地域、東に火山地域があること、そして蝶類分布がこの変化に富んだ自然を見事に反映していること」を知りました。
これが私の生物地理学への目ざめだったのです。この蝶はなぜそこに棲むのか、ということがそのテーマとなります。
私は地元の静岡大学文理学部に入学し、生物学を専攻しました。そしてひんぱんに野外に出かけ、高校時代に着想した蝶類の生物地理学を深める努力を続けました。
大学では、植物生理学の木下三郎先生から「ひとつの事実や現象に気づいたら、なぜそうなのか屁理屈でもよいから理屈をつけてみなさい、もし間違っていた
ら新しい理屈を考えれば良いのではないか」、地質学の鮫島輝彦先生から「自然科学を学ぶ者は大いに芸術に親しみ感受性を養いなさい。そこから生まれる直感
が新しい発見につながるのだ」ということなどを学びました。
同大学教育学部の動物生理生態学・稲葉茂正先生の研究室では、九州大学の白水 隆先生の、蝶類分布における“西部支那系”の重要性についての、かの有名な論文に出会い、その長大な論文をノートに書き写し、それを暗記するほどくり返して読んだものでした。
私は都内にお住いの磐瀬太郎先生や林慶先生をおたづねし、いろいろとご指導いただきました。磐瀬先生からは、狭い地域の中だけではなく世界的視野から日本の蝶を考えること、林先生からは「図鑑や本に書いてあることをそのまま信じるな」ということを学びました。
蝶類、ひいては昆虫類の生物地理学を進めていくには正確な分布・生態についての発表の場がどうしても必要となります。
そこで私は大学に入学した1953年、数名の同志とともに静岡昆虫同好会の結成に関わりました。この会から発行される会誌・「駿河の昆虫」は65周年の2017年には260号を数え、その通しページは7000ページを突破しました。
1957年春、大学を卒業した私は高校の理科(生物)教師として出発することになりました。そして、富士山にはなぜ高山蝶がいないのか、富士山麓の草原
は蝶類分布の上でどのような意味を持つのか、そして南アルプスにおけるベニヒカゲ属2種の分布のあり方などについての問題提起をしました。
しかし、やがて私はそれまでの自分流のやり方に疑問をもつようになりました。かつて磐瀬先生が指摘された、地域の蝶類分布の世界的な位置づけの本当の意味がわかり始めていたのかもしれません。
33才を迎えた1967年、たまたま静岡大学山岳会を母体とした“静岡大学コロンビア・アンデス学術調査隊”に一隊員として参加する機会に恵まれました。
当時の移民船ブラジル丸(往路)、アルゼンチナ丸(帰路)を利用して太平洋を片道でほぼ1ヶ月かけて渡ったものです。
目的地シエラ・ネヴァダ・デ・サンタマルタSierra Nevada de Santa
Martaは南米コロンビアの北端のカリブ海に面した孤立山群で、多くの固有生物が見られることで知られています。私はここでこの山群固有の珍蝶ロドプテ
ロンモルフォMorpho rhodopteronを採集して感激し、夢のような日々を過ごしました(写真3)。
一方、この山群に生息する地味なジャノメチョウ類・インカヒカゲ族Pronophiliniに属するいくつかの種が、あるものは開けた草原に、また林縁
草地に、林床の陰地に、中には林内の梢のあたりを飛んでいてなかなか降りて来ないなど、それぞれが固有の生態的地位ecological
nicheを占めていることに強い衝撃をうけました。これこそ“種”のあり方ではないだろうか。そうだ、“種”は地球の裏側でも厳然として存在するのだ。
その後、私は1973年に日本アンデス会議・共同通信社主催の「第一次奥アマゾン探検」にも参加し、おもに“擬態”をめぐるドクチョウ類の“種”のあり方を観察する機会をもつことができました。
1968年、南米からの帰国後、夜間定時制勤務となった私は、懸案となっていた日本産キマダラヒカゲの検討に取りかかりました。
中学2年生であった1948年、私は当時旧制静岡高等学校に在学しておられた湯淺 謙さんから長野県島々谷で採集された小型で著しく黒化したキマダラヒカゲの標本を見せていただきました。そのときこれは太陽光を吸収するために黒化がおこるのだろうと考えたものです。
その原因は飼育によって確かめなければなりません。私は黒化した“山地型”と明るい色調の“平地型”を飼育してその結果を比較しました。そこで両者のあいだに幼虫の形態に大きな差があり、さらに成虫の行動や生活史にも明らかな違いのあることもわかりました。
その2年後の1970年に「日本産キマダラヒカゲ属Neopeに属する二つの種について」という論文を日本鱗翅学会の「蝶と蛾」誌に発表し、初めて日本
産のキマダラヒカゲがサトキマダラヒカゲとヤマキマダラヒカゲの2種から成ることを提言しました。その後、複眼間毛数のちがい、染色体数のちがいなど、こ
の2種の存在を保証するデータが得られています。これはおかしいぞと感じた中学2年のときから22年目の年月が流れていたことになります。この研究で白水
先生から暖かい励ましのお言葉をいただいたいことは忘れられません。
1965年春、私は静岡県下の普通種ヒメジャノメが、南西諸島でどんな生活をしているのかに興味をもち、奄美大島・徳之島に出かけました。その後、沖縄
諸島・八重山諸島などへも出かけ、日本本土のヒメジャノメとそれらの島々のものとをかけ合わせてその雑種のでき方を調べました。
その結果、南西諸島のヒメジャノメは日本本土のものとは別種で、固有種のリュウキュウヒメジャノメであることがわかりました。
キマダラヒカゲの場合は同所性sympatricの、ヒメジャノメの場合は異所性allopatricの関係に当たります。
このような“種”についての私の関心は、南米での体験によるところが大きいと思っています。
日本産蝶類の分布・生態は日本周辺の近隣諸国を含む地域の中で考え、正しく位置付けをしていく必要がある、そしてつねに“種”とは何かを意識してその分
布の拡大経路などを推定する。このような考え方から、私は1970年以降、台湾・中国大陸・韓国・モンゴル・中央アジア(キルギス)・極東ロシアなどへ出
かけ、おもにこれらの地域における日本産蝶類との共通種やその近縁種の分布・生息地・生態などを実際に調査することになりました。
これらの海外調査において、私はチョウセンヒメヒョウモン、ウラグロホシミスジ、タイワンキマダラヒカゲ、ウラナミジャノメ類3種などに関して、“種”についての提言を行ないました。
少年時代から興味をもち続けている南アルプスや富士山の蝶類分布がどのようにして形成されたかということが少しずつわかって来たような気がします。
第四紀の氷河期における西からの冷温帯ステップ、北からの寒帯ツンドラの日本への侵入、後氷期(ヒプシサーマル期)の温暖化による植生変化など、日本の蝶類は環境変化の大きな試練を経て今日の状態を形づくっているものと考えられます。
蝶類の分布はその“種”の盛衰の歴史と深く関わっているにちがいありません。わたしはこの問題の解明に余生を捧げるつもりです。
(写真2) (写真3)
|
高橋 真弓
静岡県自然史博ネットワーク理事
(写真1)
|
2018.1.19
No.24 「系統分岐関係か系統発生か」
私は、今は耳にすることが殆どなくなった「国民
学校」入学前から虫好きの昆虫少年のなれの果てですので、根っからの「虫屋」です。高校生の頃は日本の大学での昆虫学の教育などについて殆ど無知でしたの
で、ただ単に雑誌、特に昭和21年頃の「新昆虫」などの知識から、日本では国立は北海道大学と九州大学、近くでは東京農工大学が昆虫の研究を盛んにやって
いるくらいの知識でした。山梨県甲府市で育った私は当時東京でも入学試験をしていた北海道大学は「身近か」で、しかも甲府一高の生物部の窪田先生が北大ご
出身でしたので、北大の理科を受験しようかと高校3年の前半までは決めていました。ところが、ある偶然のきっかけで九州大学農学部を受験することになり、
幸運にも合格して、以来40数年この大学で虫を相手の生活が続きました。2000年に退官した後、80歳になる今も福岡の地で虫をいじって生活をしていま
す。
江崎悌三先生や安松京三先生のもとで九大農学部昆中学教室の大学院修士課程をでてから、昭和36年に別キャンパスの教養部の生物学教室の教員になり、白水
隆、宮本正一の両先生が在職されていた生物学教室で生物学の一般教育をつとめました。自分自身の研究はミノガ科(幼虫がミノムシ)の系統分類学から、さら
に双翅類、特にオドリバエ科の系統分類学に重点を移しながら、白水先生のお手伝いで蝶類の研究も続けてきました。教養部が199x年に解体されて、新しく
比較文化研究科という文理学際の大学院の地球自然環境講座の教授になり、嶌洪さん、矢田脩さんらと共に初めて「自前」の大学院生を教えることになりまし
た。その前も私は農学部昆虫学教室の学生や院生とは研究面で深い関連を保ってはいました。講座の初めての院生には、弘前大学白神自然観察園の中村剛之君、
琵琶湖博物館の桝永一宏君、北大昆虫体系の吉澤和徳君、環境アセス会社を自営している坂井誠君らがいました。
彼らは双翅目、チャタテムシ類(咀顎目)、鱗翅目の系統分類を修士論文のテーマにしていました。宮本先生譲りの昆虫形態学重視の私は、彼ら院生にはまず対
象の昆虫類の詳細な形態学的研究をすることを勧めました。これは単なる既往の分類学での「分類形質」ではなく、東ドイツの双翅類分類学者のヘンニック
(Willi Hennig)が提唱する系統体系学(phylogenetic
systematics)を目指せる形態学を研究するように、という旨でした。随分と根気のいる指先と目を使う根気と勝負の仕事になります。優秀な彼らは
私が期待したように優れた研究を続けていました。新しく大学院がでた頃は日本でも大澤先生などがオサムシなどを対象にして、ようやくいわゆる分子系統の研
究が始まりだした頃でした。しかし、蝶類にも興味があった私は、ギフチョウ類の進化にも関心が深く、形態学的な研究を続けていて、再発見された中国四川省
のウンナンシボリアゲハBhutanitis
mansfieldiの系統的位置などにも興味をもっていました。しかし、系統分岐関係の推定において、私の能力をもってしては形態学的手法ではわからな
い部分があることには、常々気付いていました。その部分は、幼生期を含めた形態学に加えての行動学を含む生態学、生物地理学、等々の知見とともに、分子系
統解析が一つの解決手段になるだろうと、大澤先生のオサムシ類の研究などを通じて感じていました。それで、修士課程でアシナガバエ科の研究をしていた桝永
君に、ギフチョウ属とその周辺の分子系統解析を研究したらどうかと提案しました。彼が地理的種分化の顕著な海浜性のアシナガバエの研究をそろそろ目指して
いたことも、彼に勧めた理由の一つでした。今とは全く状況が違って、当時分子系統解析の実験ができる場所はあまり多くはなくて、大澤先生や蘇さんが研究さ
れているJT生命誌研究館の研究所が適当であろうと考えて、彼に勧めました。幸い、生命誌研究館が桝永君を受け入れてくださって、そこで初めて私たちの講
座が分子系統解析と関係を持てる状況になりました。
私は、関係する院生には、研究対象としてまず昆虫の実態、特に形態構造は昆虫が生活環境の中で生きていくうえで、直接外界と対峙する側面を持っているの
で、形態学的研究、特に外部形態学を第一に徹底的に行うことを示唆して、それを通じて系統解析推論にしても系統論にしろ何らかの結果をえたうえで、分子系
統解析を行うように、かなり強く示唆していました。桝永君が生命誌研究館で研究の初歩の訓練をうけたころに、私たちの大学院にDNA塩基配列が解析できる
講座ができました。この講座の小池裕子教授の指導で、桝永君以外の院生も分子系統解析へのアプローチを始めました。そして、その後私たちの講座の関係者に
最も大きな影響を与えて下さったのが、基礎生物学研究所の毛利秀雄先生および長谷部光泰先生でありました。
毛利先生はご専門の研究のほかに昆虫、特に蝶類に深い関心を持っておられて、蝶類の系統解析を始められていました。そして、谷川由紀子さんが助手として先
生の研究のお手伝いをされていました。そこにDNA塩基配列解析の実験の習得と蝶類の分子系統解析の研究のために、私たちの講座の院生が次々とお世話にな
ることになりました。私たちの大学院のスタッフであった蝶類研究者の矢田脩さん、院生の小田切顕一君(現九大比較文化研究員研究生)、矢後勝也君(現東京
大学総合研究博物館助教)、杉本美華君(現与那国町立アヤミハビル館専門員)、それに私自身も基生研の研究室に滞在させていただいて、DNAの分子解析の
イロハを勉強させていただきました。ここでの経験は後に彼らの昆虫系統学の研究に大きな影響を与えることになりました。また、小池研究室でDNA解析の手
法を勉強した吉澤和徳君は北海道大学に職を得て、ここで本格的に昆虫類の主要群、特に不完全変態類の系統解析をおこなうとともに、これら昆虫類の翅の基部
の微細な形態学的研究を本格的に始めるようになりました。
これまで私をめぐる昆虫の研究、特に系統学的研究では。形態形質を重視しながら新しい研究手段としての分子系統解析へ着目していたことがご理解いただけた
かと思います。最初に書きましたように根っからの虫好きですが、虫の様々な面白さの中でもいろいろな昆虫の違い、比較から、その起源、原因を探したいとい
う点に興味が移って行きました。小、中学生の頃は水田に設置された誘蛾灯に集まった虫を漁って、タガメやゲンゴロウ、さまざまな蛾などいろいろな昆虫を集
めて喜んでいました。高校ではもっぱら蝶類に興味を移していましたが、大学では農学部ということでミノガ科の研究を始めたことで、この虫達の雌の著しい多
様性の起源を知りたいという気持ちが強くなりました。さらに、当時、白水先生と山本英穂さんがミドリシジミ類の系統学の研究をしていました。このようにい
ろいろな影響のもとで、昆虫たちの起源を探りたい、いわば系統学的な研究を志向するようになりました。
京都大学でネズミ類の研究などをされた徳田御稔先生が当時岩波全書から「改稿進化論」という本を出されていました。これは学部生の私にとって系統学へ傾注
していくための大きな道標になりました。形態と生活が密接に関連して進化しているミノガの研究を始めていたので、系統学は生物の生活を通じて研究されるも
のである、という徳田先生の命題は強く心に刻まれました。そして、系統学の重要性を端的にしめした図書、ヘンニック(Willi
Hennig)が著した Phylogenetic
Systematicsに1966年に出会うことになりました。この本は系統体系学systematicsの重要性、系統枝分岐探索の手法、その重要性が
明快に、しかしかなり難しい論調で示されていました。本種の序論では哲学的な見解が展開されていて、弁証法的唯物論に関心を示していた私にはまた新鮮な面
がありました。今にしてみると、本誌の読者のなかで幾人の方々がこの本の名前は知っていても、読破したでしょうかと問いかけたい気持ちになります。ヘン
ニックは、系統分岐体系は進化生物学にとって最も重要な一般参照体系(general reference
system)であり、それゆえに生物学研究の中でも極めて重要な研究分野であることを強調しています。このように、私の系統学は、ミノガや諸々の昆虫た
ちから得た生の知識と徳田流の系統学、そしてHennigの系統枝探索という一本の道筋で進んできたということができるでしょう。ここまで、私と私を取り
巻く系統学関係の事柄の一部を述べさせていただきました。
さて、ようやく本題を簡潔に述べたいと思います。物質の二つの側面、形づくりと動きという観点からは、実はDNAの「塩基配列状態」は前者であり、生き物
の形態そのものです。この点が十分に自覚されずに、生物の形態とDNA配列を対比させて、あたかも両者が別個の生物の側面であるかのような誤った考えを持
つ研究者がいかに多いことか。生物の形態とは分子レベルから昆虫の「外部形態」まで、私達がとらえようとすれば連続的なレベルのいずれかであります。第一
の観点はDNA塩基配列は形態形質の一つであるということです。もちろんDNAが生理的に機能する面は別です。
次に、ヘンニックは同書のなかで系統分岐関係の知見は一般参照体系であり、生物の多様な側面について生物の間で比較研究などする際に参考になる体系として
機能することに存在意義があることを強調せいています。すなわち昆虫の外部形態(integumental
morphology)の比較研究によって種などの間の類縁関係を推論するにしても、またDNA塩基配列に基づいて同様に類縁関係を分岐図に表しても、い
ずれもが一般参照体系を作り上げる研究である、ということです。第二の観点は、系統分岐関係は比較生物学、あるいは進化学、系統発生学のための一般参照体
系であるという点です。
第三に、系統学の研究をする上で、言葉の定義が重要であるということを述べたいと思います。我々は言葉を通じて研究活動を自分自身の中でも、研究者間でも
認識し合っています。系統、系統枝、系統分岐関係、系統発生、系統解析、など様々な言葉が研究者の中で何気なく使われています。今個々の言葉の定義に全て
触れるつもりはありません。中でも、最も漠然と使われて誤解を生じやすい言葉が「系統」であろうかと思います。人によってどうにでも採られている言葉で
す。系統分岐関係は、三つ以上の生物種が過去に血縁が分かれた順序であり、過去の事実であって、私達はそれを推論するしかありません。現実に研究した結果
はあくまでも推定された系統分岐関係に過ぎません。過去の現実と推論を同一視しては常にいけないのです。もちろん系統分岐関係は「系統」ではありません。
第三の観点は系統発生の研究上では言葉の定義、概念を明確にして研究すべきであるということです。
最後に、系統分岐関係と系統発生です。ヘッケル(Haeckel)の「個体発生は系統発生を反復する」と簡潔にまとめられている反復説です。反復説そのも
のをここで云々するのではありません。ここでは個体発生という言葉と系統発生という言葉が対比されています。個体発生と言えば、だれでも卵内の胚子や胎児
の発生状況を思い出します。しかし、昆虫などでは後胚子発生で顕著な変化が見られます。そして、完全変態類は「卵、幼虫、蛹、成虫」の経過をたどると単純
に図式的に言ってしまいます。しかし、それぞれの種では、卵も幼虫も蛹ももちろんそれぞれの姿を持ちまた生きて生活をしています。その変化過程そのものが
厳密な意味では個体発生だと思います。そして、もし系統発生が個体発生の反復である、とすれば、それは今ある生物のあり方、形や生活、は、過去に存在した
祖先たちのあり方、形や生活の連鎖の中にある、ということは自明のことです。系統発生とは、系統分岐関係(現実には推定された)そのものではなくて、後者
を包含した、過去の祖先たちの生きざまの連続に他ならないと思います。それを研究していくのが、系統発生学ではないでしょうか。今、3種以上の生物の今と
過去の祖先たちの姿と生活を探求する、いわば系統発生を研究・推論して、また、3種の生物が辿った血縁系列、それらの系統枝の分岐関係の部分を図式すれ
ば、それが系統枝図であるわけです。これは前述のように系統発生そのものではなく、その一面にすぎません。しかし、DNA塩基配列でもたらされた分岐図、
いわば分子系統分岐図が、「系統発生」そのものであるような幻想を抱いている研究者がいるような気がして老学は心配をしています。分子系統分岐図も
Hennigの言うところの一般参照体系を構築するための一つの資料にしか過ぎないのだと思います。最後に系統発生は系統分岐図ではないと申し上げて、終
わります。
|
三枝 豊平
九州大学名誉教授
三枝昆虫自然史研究所
|
2017.4.28
No.23 「世界の果てまで行って昆虫採集 in インド洋」
海岸で昆虫採集。この組み合わせにあまり馴染み
がないかと思います。私の研究対象は潮間帯に生息しているアシナガバエの仲間です。このイソアシナガバエは潮の満ち引きがある海岸で生活しています。肉食
性のハエで、幼虫と成虫は節足動物を捕食します。卵、幼虫、蛹の時期では、潮が満ちている間は海中に沈んでおり、少しかわった生活をしている珍虫です。こ
の他にも、砂浜のカニ穴にいるハエもいます。こちらは生態については分かっていません。これらの昆虫は海岸の汀線にしか生息できず、分布域が線状となるた
め、系統生物地理の材料として好都合なのです。修士論文では日本列島、博士論文では東アジア地域で調査してきました。現在では調査地域を世界に広げてきて
います。
地球はあらゆる所に虫がいることから「虫の惑星」ともいわれます。とはいっても、海岸にすむ昆虫の種類は多くはありません。そのため、海岸での採集を研
究仲間に頼めず、国内外の博物館にも目当ての標本はありません。そこで、自力でハエを集めることになり、今まで29の地域や国で採集してきました(図
1)。アシナガバエの仲間は未記載種が多く、自ら採集したハエにまず名前をつける作業から始め、実験を続けています。博士課程1年生のときに大澤省三先生
のご厚意で蘇智慧さんのもとでDNAの実験方法を学ばせて頂きました。
ここ2年ほどはインド洋に焦点をあてています。昨年2〜3月には、マダガスカル、マヨット、レユニオン、モーリシャスで、今年の3月にはアラビア半島の
オマーンとカタール、セイシェルとモルディブで調査しました。国名から「楽園で昆虫採集」に思えますが、水着で楽しそうに泳ぐ人たちや、磯釣りをする人た
ちを横目に、日陰のまったくない、直射日光に照らされる灼熱地獄の中で一日中、昆虫網をふり続けています。学生時代に同じ研究室のフィールドには慣れてい
る友人と一緒に海岸で採集したことがありますが、その友人は一日でひどい日焼けになり大変なことになりました。日焼けに弱い人は要注意です。私はという
と、初めての場所でも現地の人から道を聞かれることが度々あるくらい、現地の人より黒くなるので大丈夫なのです。
私の調査方法は調査場所と同様に他の昆虫調査とは違い、1箇所に腰を据えることなく、転々と移動していきます。島や海岸線でどれだけ多くの調査地点を稼
げるかにかかっています。そのため、調査地の選定を事前にしっかりしておかないと、現地で時間切れになり、次の調査地に移動しなくてはなりません。そこ
で、事前の調査地選定が重要となります。どのようにしているかというと、グーグルマップの衛星写真を使い、イソアシナガバエが生息していそうな岩場の有無
を確認しています。これにより、ほぼ間違いなく目的の昆虫を採集することができます。便利な時代になったものです。まだアフリカ大陸では南アフリカとモ
ロッコでしか調査ができていません。珍虫ハンターのワールドツアーは、もう少し続きます。
図1調査地点
|
桝永 一宏
滋賀県立琵琶湖博物館 専門学芸員
|
2017.4.28
No.22 「クモを探してハチを取る」
コラムのバトンを渡していただいた平井先生の研
究室は、実に多様な分類群を対象に研究を展開されていて感嘆しましたが、私の出身の研究室でも学生はずいぶんと様々な研究対象を持っていました。そんな懐
の深さのおかげでしょうか、私も希望通りヒメバチという寄生バチを対象として分類の研究をスタートさせることができました。なぜややこしそうなヒメバチな
のかと自分でも思わないでもないのですが、一つ思い出すのは、昆虫調査の実習で初めてスウィーピングで採集をした時の、色形の様々なヒメバチが沢山網に
入った光景です。少し調べてみたものの容易には正体がわからない、こんなによく分からない虫が身のまわりにたくさんいると言うのは新鮮な驚きでした。ま
た、小さい頃から昆虫、中でもハチが好きだったため、自然観察者の手記などの岩田久二雄さんの著作は小さい頃からよく読んでいましたが、クモに寄生するク
モヒメバチをはじめとして、いくつかのヒメバチもその中で扱われていて、ヒメバチの行動は面白そうだという印象をもったのも理由の一つといえます。大学院
では材穿孔性の甲虫に寄生するヒメバチの分類や、トガリヒメバチの生活史の研究に取り組みました。
その後、運良く学芸員として博物館に職を得ましたが、学芸員の仕事は資料の収集保管、調査研究、展示、普及・教育と想像以上に多岐にわたりました。研究
とのバランスをとるのもなかなか容易ではありませんが、合間をぬって取り組んでいるのがクモヒメバチの研究です。やはり行動が面白そうというのが大きな動
機となりました。クモヒメバチは外部捕食飼い殺し寄生というちょっと変わった寄生様式をもっています。メスは寄主となるクモを針で刺して麻酔してから卵を
体表に産み付けます。クモへのアプローチも網の周りを飛び回ってから飛びかかるもの、網にとまってクモが近づいてくるのをひたすら待つもの、自ら棚網に飛
び込んだり、ヒメグモ類の釣り糸を脚ではじいて、獲物だと思って飛び出してきたクモに逆襲するものなどとても多様です。麻酔から覚めたクモは通常の生活に
戻り、孵化したハチの幼虫はその体の上で少しずつ体液を吸収しながら成長していきます。ああ、自分の運命を握る殺し屋を背負い、せっせと網を張り、獲物を
捕らえる哀れなクモたち!
もう一つクモヒメバチで面白いのはハチの幼虫によるクモの行動操作です。クモの網というのは獲物の捕獲に非常に特化していますが、長期間にわたる丈夫さ
には欠けています。クモが元気なうちは網は常にメンテナンスされていますが、クモは最終的に吸い尽くされ、死んでしまうので、網の上で紡がれるマユは、実
はかなり危険な状況に置かれることになります。ではどうやってクモヒメバチはそんな危険な状況を避けるのでしょう。不思議なことに十分に成長した幼虫を背
負ったクモは、なぜか行動が変化し、より小さく、縦糸が重複し、粘球がつく横糸が消失した丈夫な網を張るようになります(図2)。幼虫が傷口を通して何ら
かの物資を注入していると考えられていますが、何かに操られるように(実際に操られていることが幼虫の取り除きによって確認されているのですが)、同じと
ころに繰り返し糸を張り補強していく姿をみていると、何とも言えない気持ちになるとともに、生物の相互作用の妙に深く感心させられます。こうして張らせた
安全な変形網の上で、クモヒメバチはマユを紡ぎ、蛹化・羽化して成虫となります。
クモヒメバチ研究のとりかかりとして記載分類を進めつつ、どんなクモを利用しているのか、幼生期、成虫の行動、寄主の操作について、野外観察や室内実験
で調べていきました。日本からは50種以上のクモヒメバチが見つかっていますが、利用されるクモは様々なグループを含み、ほとんどの場合1種ないし、ごく
近縁な数種のクモを利用している事が分かってきました。クモとの結びつきの強さを考えればそれも当然といったところでしょうか。産卵行動、種間および種内
の競争についても観察例を増やし、寄主操作には網の強化だけでなく、捕食者に対する防御の機能があることも明らかにすることができました。
それぞれのクモヒメバチがどんなクモを利用し、どんな「技」をつかってクモを攻略しているのか、その解明自体とても楽しいものですが、情報が集まってく
ると、今度はそれぞれのクモとクモヒメバチの関わり合いがどのように獲得されてきたのか、その歴史を覗いてみたくなります。サンプルはすでに揃っていまし
たし、ちょうど良いタイミングで館にシークエンサーとサーマルサイクラーが導入されましたので、早速解析にとりかかりました。その結果、大まかな寄主利用
の道筋、つまりクモヒメバチはクモの卵嚢内の卵を食べるグループと姉妹群関係にあり、フクログモのような網を張らずに隠れ家を作るグループを利用するもの
がまず分岐し、さらにアシナガグモやサラグモのような水平円網や皿網を張るものを利用するグループと、オニグモのような垂直円網を張るクモの寄生者に分岐
したこと(後者の一部はさらに不規則な立体網を張るヒメグモ類にシフト)が明らかになりました。
昆虫の調査ではそれぞれ対象によってサンプリングの方法は異なります。クモヒメバチの採集は網を使ったスウィーピングやマレーゼトラップが主なものです
が、寄主情報を得るためには幼虫のついたクモを見つけるのが一番です。網をたよりにクモを見つけて、卵や幼虫がついていないかじっくりチェックするのが基
本です。またビーティングも欠かせない採集法で、ネットを下に受け葉や枝を叩き、落ちてきたクモを1頭ずつチェックするという宝探しを延々と繰り返しま
す。今でこそ大部分の種の利用するクモが判明していますが、研究を始めた当初は「このクモにも幼虫がついている!このクモにも!」と驚きの連続でした(図
2)。幼虫付きのクモはもちろん持ち帰り、ハチを羽化させるために飼育します。ヒメグモ類は狭い容器でも飼育がうまくいくことが多いのですが、スペースの
関係かオニグモなどはなかなかうまくいきません。寄生が初めて確認されたクモが途中で死んでしまうのは本当にがっかりです。それでも、以前は液浸標本にし
て終わりだったところが、今は幼虫からDNAを抽出してバーコーディングで種の推定をすることが可能です。異なるステージ間でも比較することができるとい
うのはDNAの大きな強みですね。ただしそうやって読んだ配列が全く知られていないものだったということもあり、その場合はほぼ未記載種でありながら、手
もとには死んだ幼虫しか残らず、成虫の姿形も全くわからないという、それはそれで悲しい状況に陥ってしまいます。
多くの種で寄主が分かってきているとは言え、まだまだ寄主の不明なクモヒメバチは残っています。これまでの発見のペースを考えると、未知のクモヒメバチ
もまだ確実にいるでしょう。単一の種と思われていたものに、いくつかの遺伝的なまとまりのある、それぞれ違う寄主を利用して形態も微妙に異なっている集団
が認められそう、という例がいくつかのグループで分かってきています。おまけ付きのクモ探しはまだまだ終わりそうにありません。
図1 Reclinervellus tuberculatusの幼虫の操作により変形したゴミグモの網(もとは垂直円網、中央はマユ)
図2 ホシミドリヒメグモに寄生するZatypota chryssophagaの幼虫
|
松本 吏樹郎
大阪市立自然史博物館
学芸員
|
2017.2.20
No.21 「DNAのパズル」と「わらしべ長者」
「DNA解析はパズルのようなもの」。学生に説
明する際に私がよく使う言葉です。配列を眺めたり、系統樹を作ったり、プライマーを設計したり、手法から解釈まで私にとっては難しく楽しいパズルの連続で
した。華々しい業績はないかもしれませんが、自分ではこれまでの過程は「わらしべ長者」のような良い機会の連続だったと思います。
学位研究では、アサギマダラと寄生バエの種間関係を中心に野外調査と飼育実験を行ってきたので、私の博士論文にはDNA解析は全く出てきません。ただ、
自分で扱う昆虫たちの遺伝的な背景はいつも気になっていました。2003年ごろだったと思いますが、同じキャンパスの八木孝司先生にお世話になり、DNA
解析の技術を教わりました。マダラチョウや寄生バエの、外見では分からない違いが見えたことに大変な感動を覚えました。ほどなく私の研究室にも最低限
PCRができる器材が入り、同じ建物でシークエンサーが利用できるようになりました。このタイミングで、シルビアシジミの大阪個体群が発見され、自身の研
究室での解析の第一歩となったのです。初めて配列を読んだのは、昆虫ではなく、共生細菌のWolbachiaでした。この研究は、前回コラムの坂本佳子さ
んによって発展をつづけ、さまざまな発見を生み出しました。2008年に本州で大発生したクロマダラソテツシジミの解析では、提供いただいたものも含め、
さまざまな境遇の多くの標本を扱ったので、PCRの条件を調整する良い勉強にもなりました。
私にとっての次のステップアップは、2010年のフィンランドへの留学でした。前半は、メタ個体群研究で有名なグランヴィルヒョウモンモドキの生息地
オーランド諸島で、天敵のコガネコバチの野外調査と飼育実験を行い、その後ヘルシンキ大学で初めてのマイクロサテライト解析を行いました。当時、研究グ
ループではグランヴィルヒョウモンモドキの全ゲノム解析に取り組んでおり、多くの研究者、学生、技術者がそれに携わっていました。シークエンサーも回りっ
ぱなしで、私のサンプルを入れる余地がない状態でしたが、何度か割り込ませてもらって何とかデータを得ることができました。
この経験はのちに、淡水魚類のナガレホトケドジョウの研究で役立つことになりました。熱心に研究を行った猪塚彬土君の努力で、もともと魚類が好きだった私にとって夢だった魚の論文が昨年出版されました。
私の研究も多様化しました。研究室では、チョウをはじめとする昆虫のほかに、エビ、サンショウウオ、淡水魚、ウミガメ、フクロウなども扱うようになりま
した。この間に「DNAのパズル」もより細かく、難易度を増していると感じています。解けないパズルもありましたが、「わらしべ長者」の次のステップアッ
プを信じて難解なパズルが出てくるのを楽しみにしています。
|
平井 規央
大阪府立大学大学院 生命環境科学研究科
准教授
|
2016.4.12
No.20 虫を通して明日をみる
これまでのリ
レーコラムを読み返してみると、「自分は虫屋ではなかった」と謙遜されている方がちらほら見受けられたのだが、私はそれの比ではないくらい虫屋ではなかっ
た。それどころか、虫オンチであった、否、虫オンチである。初めてオオスカシバを見たときは全力でハチだと信じたし、アリジゴクがウスバカゲロウの幼虫だ
ということも随分後になって知った。嗚呼恥ずかしや。大学でシルビアシジミを研究テーマ選んだときも、ヤマトシジミとの見分け方から習う始末だった。筆者
の写真(写真1)からもお分かりいただけると思うが、捕虫網の持ち方からして、どうも間違っているらしい。
しかし、こんな私でも、幼い頃から虫を観察するのは大好きだった。なかでも標的になったのは、家の中に入ってくる虫である。実家は、神戸の六甲山系の麓
にあり、文字通り山に面していたので、風呂場の天井にはたいがいオオゲジが鎮座していたし、真冬には犬小屋でザトウムシが暖をとるような環境だった。当時
は、捕まえた虫を観察するのに、インスタントコーヒーの空瓶を愛用していて、一時、文鳥の餌箱に湧いたイモムシ(おそらくノシメマダラメイガ)に心酔し、
瓶にアワとイモムシを入れ蓋をして、その行く末を見守るのが日課になっていた。イモムシは、やがて成虫になり、交尾をし、また新しくイモムシが誕生する。
何ヶ月経っても瓶の中では生と死が繰り返され、私にはこれが永久機関のように思え、とてつもなくわくわくしたものだったが、アワがすべて砂粒になった頃、
イモムシたちはパタリと息を引き取ってしまった。また、ある時は、越冬中のクサギカメムシを何十匹も集めて「臭瓶」と称し、とんでもない凶器(狂気?)を
作ってしまった、と瓶を抱えながらニヤニヤしていたのもつかの間、案の定、自滅させてしまったこともある。それに、布団に紛れこんだムカデを捕まえて瓶に
入れ、庭で採ってきたアリやチョウなどを与えては、ムカデが食らいつく様を穴が開くほど見つめるのが好きだった。
そして、今も、虫を見つめている。ミツバチと、それに寄生するアカリンダニ(写真2)である。このダニは、体長0.1mmと非常に小さく、ミツバチの気
管の中で繁殖し気管を塞ぐので、ミツバチは発熱できずに、死んでしまう。日本には、古来より生息するニホンミツバチ(写真3)と海外から導入したセイヨウ
ミツバチ(写真4)がいるが、アカリンダニは、ニホンミツバチへの被害が顕著なのに対して、セイヨウミツバチへの影響はほとんどない。その違いはなぜかと
いうこと調べていくうちに、どうやら、ミツバチのグルーミング行動が関係していることがわかってきた。アカリンダニは、新しい宿主に移動する際に、一旦気
管から出てミツバチの体表を歩くのだが、セイヨウミツバチは体表でうごめくダニを感知し、それを払い落とすことができるのに対し、ニホンミツバチは鈍感で
ほとんど気づかず、たとえ気付いて払い落とそうとしてもうまくいかないのである。私は、この結論にいたるまでに、ミツバチとダニをひたすら観察し続けた。
それは、楊枝の先にまつ毛を取りつけた特製のブラシで、0.1mmのダニをすくい上げ、ミツバチの背中にのせて、ミツバチがどのような反応をするか、何度
グル―ミングを行うか、ダニを払い落とすことができるかを調べるというもので、それこそ一千匹近くのデータを記録した。ずっと観察を続けていると、強烈な
肩こりと眼精疲労に悩まされるのだが、ミツバチが一生懸命背中を掻く姿がとても可愛らしく、癒されるのである。また、とくにもかくにもじっと虫を見つめて
いられるということが楽しくて仕方なかった。その時に、ふと、冒頭に書いたような昔の記憶がよみがえってきたというわけである。
私が、なぜミツバチとアカリンダニの関係に着目したかというと、そこに、人間活動と生物多様性の問題が集約されていると感じたからである。アカリンダニ
の遺伝子を調べたところ、このダニはセイヨウミツバチの導入とともに、海外からやってきた可能性が高いことがわかった。ニホンミツバチは、まだアカリンダ
ニに対抗する術を持ち合わせておらず、このダニの侵入によって、存続すらも危ぶまれている。つまり、人間が手を加えなければ、ニホンミツバチとアカリ
ンダニは出会わなかったはずで、ニホンミツバチにとっては降ってわいた災難というところだろう。さらに、ニホンミツバチは多種多様な在来植物の受粉に関
わっているため、ニホンミツバチの衰退が生態系のバランスを大きく揺るがすことも想定される。それと同時に、近年、ネオニコチノイド系農薬がハチへの死亡
影響のみならず、免疫低下や行動異常の可能性が指摘されていることを鑑みると、ニホンミツバチとアカリンダニの関係に農薬が無関係であるとはとても思え
ず、こちらも目下実験中のところである。このような人間活動によって生じた生態系の歪みはとどまることを知らず、具体的にどのような対策をとるべきなの
か、我々は今、答えに迫られている。そして、私が注目しているミツバチとダニと農薬の関係を明らかにすることで、その答えに一歩近づけると信じている。
今でも、虫を見つめる時、瓶の中を覗いた時のような高揚感を感じるが、当時と違って、その先に我々の未来がある、という意識がある。私たち研究者は、個
人の趣味というか、個人の興味の赴くままに、好きなものを追ってしまいがちである。もちろん、それを否定するつもりはない。それが人間の本能であり生きが
いである。しかし、国から研究費をいただいている私の場合、自分の研究にどういう意義があり、どのような面白さがあるのか、今すぐには役に立たなくても将
来的にどういったことに役立つ可能性があるのか、ということを国民に説明する義務がある。好きなことだけをやりたいというのなら、自費でやってください、
と言われても仕方ない。現職に就いてからは、国や地方自治体の担当官、養蜂家、一般市民の方々からご要望やご意見をいただく機会が頻繁にあるため、自らの
襟を正すことが多くなった。だが、そんな堅苦しい話は抜きにしても、すでにミツバチの愛らしさにはメロメロなわけで、これからも虫を見続けたい。その先を
見たい。
写真2 0.5mmシャープペンシル芯上のアカリンダニ(撮影:坂本佳子・前田太郎氏).左から卵,幼虫,メス成虫,オス成虫.
写真3 ニホンミツバチ
写真4 セイヨウミツバチ(撮影:奇人・小松貴氏)
|
写真1 闇雲に捕虫網を振る筆者
坂本 佳子
国立環境研究所・研究員
|
2016.3.2
No.19 奇人との思い出 2013 : 乗鞍岳で起きたこと。
植物の種子が
母体から離れて移動することを種子散布という.固着して生活する陸上植物にとって,生育場所から離れて,遠くに移動できるのは,この種子散布の段階のみ
だ.種子散布の様式は多様で,重力,風,水などの非生物を媒体とする方法だけでなく,動物に種子を運んでもらうという方法がある.その中でも,種子をアリ
に運んでもらっている植物(アリ散布植物)はかなり多く,スミレやカタクリなど世界で90属2,800種ほどが知られている.アリ散布植物の種子の表面に
は,アリを呼び寄せる脂質に富んだエライオソームと呼ばれる小さな付属物が付いている.アリはこれに誘引され,種子を運搬するのだ.
日本の低山域では,スミレやカタクリなど複数の種で,アリによる種子散布が確認されているが,森林限界を超える高山帯でアリ散布植物の調査をした研究は極めて少ない.「高山植物の女王」と呼ばれるコマクサ Dicentra peregrina(コ
マクサ属,ケシ科)の種子にはエライオソームが付いていることが知られており(図1),アリ散布植物であることが千葉・清水(2006)によって指摘され
ていたが,実際どのアリ種がコマクサの種子を運搬するかという野外観察はこれまで報告されていなかった.なお,コマクサは北海道と本州の高山帯に分布する
多年草の植物だ.花期は5〜8月頃で,4ヶ月間だらだらと花が咲く(図2).
2012年,私は信州大学にポスドクとして所属しており,北アルプスで山岳性アリ類の生態と多様性を研究していた.特に乗鞍岳で集中的に調査を展開して
いた.乗鞍岳は北アルプスの南端に位置し,剣ヶ峰(標高3,026m)を主峰とする山々の総称である.乗鞍岳は山頂付近まで自動車道(乗鞍エコーライン)
が整備されており,バスやタクシーを利用すれば,松本駅から3時間程度で山頂付近までアクセスできる.
これまでの調査から,乗鞍岳北部の平湯・乗鞍登山道沿いの丸山付近(標高2,510m)に数百株のコマクサが生える巨大な群落があり(図3),その群落の周囲にはタカネクロヤマアリFormica gagatoides (ヤマアリ属,ヤマアリ亜科)が分布することを突き止めていた.平湯・乗鞍登山道は2005年度に新設された登山道で,アクセスが悪く人通りが少ない.調査地としてはうってつけである.
タカネクロヤマアリは北海道と本州の高山帯の空閑地に営巣し,活動期は5〜9月下旬である.タカネクロヤマアリが日本に分布することが発見されたのは
1970年台後半であり,今でもその生態はほとんど分かっていない.分布域と生息環境がコマクサと重複しており,コマクサの種子を運搬するアリの第1候補
である.そこで,私は野外で採取したコマクサの種子をタカネクロヤマアリに提示するという単純な実験を考えた.
2013年の5月初旬,私は野外実験をおこなうために環境省と林野庁にコマクサの種子の採集許可を申請した.乗鞍岳の山頂部は国立公園の特別保護区に指
定されており,すべての植物・動物の採集に許可が必要だ.前年も許可申請を出して1ヶ月程度で許可が得られていたので,「今年も7月迄には調査がスタート
できるだろう」と高を括っていた.しかし,実際に全ての許可が得られたのは8月の下旬であった.しかも,採集できるコマクサの種子の数は申請時の1/10
に削減されていたのである.このときは焦った.8月下旬の乗鞍岳の山頂といえば初雪が降ってもおかしくない時期のうえ,悪天候が続き,乗鞍に行くことは出
来なかった.しかも,9月13〜16日は日本昆虫学会札幌大会であった.実際現地にたどり着けたのは9月20日になってしまった.
午前8時,私は盟友である小松貴氏と共に信州大学松本キャンパスを出発し,乗鞍岳に向かった.野外調査に行くには遅い出発のように思えるが,実はちょう
どいい.早く行っても路面が凍結していて,ゲートが開かないからである.9月下旬の乗鞍岳はすでに秋を通り過ぎ,初冬だ.しかし,その日は最高の天候だっ
た,雲ひとつない好天で,風もなく,10時を過ぎるとぐんぐん気温が上がった.
11時,コマクサの群落に到着した我々をタカネクロヤマアリは歓迎してくれた.なんと結婚飛行の現場にばったり出くわしたのである.調査地の周囲を新女
王と雄アリが飛び回り,地面には脱翅した女王も何匹か見受けられた(図4).アリ学者としては興奮の極みだ.世界で始めて日本産のタカネクロヤマアリの結
婚飛行を確認したのである(Ueda & Komatsu
2014).興奮さめやらぬなら,我々はコマクサの種子を探し始めた.すべてのコマクサの花は枯れ落ちており,なかなか種子は発見できない.しばらくの探
索の後,枯れた花がまだ茎に付いているコマクサがいくつか発見できた.花の中には種子が入っており,計10個の種子を確保することができた.
2つのアリの巣の入り口のすぐそばに種子を5個ずつ置き,アリの種子に対する行動を1時間観察した.アリの種子に対する行動は,@巣から出てきた複数の
働きアリが種子に興味をしめす,A種子表面を触角でタッピングする(図5),Bエライオソームの部分を大顎でくわえ,巣内に運び込む(図6)である.1時
間で10個のうち5個の種子が巣内に運び込まれた(Komatsu et al. 2014).
餌資源が少ない高山地帯において,脂肪酸を多く含むエライオソームはアリにとって魅力的な餌資源となる.タカネクロヤマアリの巣内に運び込まれたコマク
サ種子は,エライオソームのみが食べられ,不要な種子本体は巣外に捨てられるのであろう.捨てられた場所でコマクサが新たに芽吹き,少しずつ分布を広げて
いる可能性がある.本研究の成果は,絶滅が危惧される高山植物と昆虫間の相互作用を明らかにしたものであり,高山生態系の保全戦略に対し群集全体の保全と
いう具体案を提示するだろう.
この日の7時間の調査で,我々は以下2本の論文を出版した.
Komatsu T, Itino T, Ueda S (2015) First report of seed dispersal by
ants in Dicentra peregrina (Papaveraceae), an alpine plant in the
Japanese Alps, Entomological Science, 18(2): 271-273
Ueda S and Komatsu T (2014) Observation of nuptial flights of an alpine
wood ant, Formica gagatoides Ruzsky, 1904 (Formicinae) in the Japan
Alps, ARI Journal of the Myrmecological Society of Japan, 36: 7-10
7時間の野外調査で論文2本というのは自己新記録である.これがなしえた理由は,予備調査で好適な調査地を設定し,準備が整えられていたこと,日本の高
山帯という誰もが調査をしない場所で研究をおこなったことが挙げられる.小松貴氏という希有な共同研究者に恵まれたことも大きい.
日本の高山域はまだまだ調査が行き届いていないフロンティアだ.本山域を対象とした野外研究は新規性が高いパイオニアワークであり,人々の好奇心を刺激する.特に,植物と昆虫間の種間関係については未解明な部分が多く,今後多くの新知見が得られるだろう.
<付図説明>
図1.コマクサの種子.種子本体は光沢がある黒色,エライオソームは綿状で白色(撮影:小松貴)
図2.乗鞍岳山頂部の砂礫地に咲くコマクサ.その美しさから高山植物の女王と呼ばれる
(撮影:上田昇平)
図3.種子を採取したコマクサ.花は枯れているが,まだ茎に付いていた(撮影:上田昇平)
.
図4.脱翅したタカネクロヤマアリの女王(撮影:上田昇平)
図5.コマクサの種子表面を触角でタッピングするタカネクロヤマアリの働きアリ(撮影:小松貴).
図6.タッピング後,エライオソームの部分を大顎でくわえ,巣内に持ち帰った(撮影:小松貴).
|
上田 昇平
大阪府立大学・生命環境科学域
|
2015.11.24
No.18 探検を実験に:ヘリとボートと時々ロケット 大島 一正
10日の火曜日はロケットの打ち上げがあるから,ライトトラップは海の近くのサバンナでやろう.打ち上げを見るのにちょうどいいビーチがあるらしいから,ライトをセットしたらビールを買って浜辺に行こう!
パリ Paris のオルリー Orly
空港で,いつもは気まぐれなフランスの共同研究者が珍しく具体的な調査プランを話してきた.しかしその他のスケジュールは,とあるフィールドステーション
(日本で言うところの演習林のようなところ)に2週間滞在する以外,いつも通り特に何も決まっていないらしい.そんな会話をしながら,フレンチギアナ
(フランス領ギアナ) 行き AirFrance 便の手荷物カウンターの長い列に並ぶ.
とりあえず,現地に到着したら,それぞれの研究者がそれぞれの分類群に応じた方法で,フィールドステーションのトレイルを歩き回ったり,時には深いジャ
ングルの中に入ったりして何かしらの面白いこと(虫)を探す.これがいつものフレンチギアナ調査におけるミッションである.手付かずの密林がいつも昆虫の
採集に最適なわけではなく,時にはアスファルト舗装された道路の両脇やヘリポートのようなある程度の擾乱を受けた場所が面白いこともある.とりあえずは,
歩き回らないことには始まらない.そして夜は毎晩ライトトラップをする.
さて,ヘリポート,という言葉が出てきたが,面積の大部分(90%以上)が依然ジャングルに覆われたフレンチギアナにおいて,ヘリコプターはとても重要
な移動手段である(写真1).研究計画書の経費の項目には,ヘリコプターに関する費用が頻繁に登場し,大体のフィールドステーションはヘリポートを備えて
いる.ヘリに乗る,というのは,最初に来た時は驚いたが,すぐに慣れてしまうもので,「この前登った山のてっぺんが開けていたから,次の調査の時はヘリで
発電機を運んで山頂でライトトラップをしよう」などというアイデアも普通に出てくるようになってしまう.
ヘリとともにフレンチギアナのジャングルで重要な移動手段はモーターボートだ.長さ数メートルほどのボートに荷物とともに乗り込んで,ひたすら上流を目
指す.パリからの直行便が到着する県庁所在地(フレンチギアナはフランスの海外県)のカイエンヌ Cayenne
から,車で2時間ほどかけて大きな川に作られた小さな波止場に辿り着き,そこからさらに数時間かけて川を遡上する(写真2).私は炎天下の乾季にしか経験
がないが,水量が下がった川はところどころ水しぶきが上がる急流となっており,そういう場所は船頭の腕の見せ所らしい.炎天下での数時間の船旅はそれなり
に疲れるが,水量が減って水面から顔を出した岩に咲くカワゴケソウの花や,時々頭上を通過していくモルフォチョウ,昼行性の綺麗なツバメガなどのおかげで
全く飽きることはない.
さて,そんな移動手段だけでも十分刺激的なフレンチギアナ調査なのだが,そこで見つかる昆虫も負けず劣らず我々を楽しませてくれる(というか,こちらが
主目的なのでそうでないと困る).私の専門は鱗翅目であり,特にホソガ科という小さな蛾類に焦点を当てて研究をしている.このグループはいわゆる「絵かき
虫」であり,幼虫時代を葉に潜って過ごす典型的なリーフマイナー leaf miner である.
そして我々が注目しているのは,幼虫期の前半を普通のリーフマイナーとして過ごし,幼虫期の途中からゴール gall (虫瘤)
と呼ばれるカルス状の組織を植物体に形成するホソガである(写真3).この「途中からゴールを形成する」というのがミソで,本当にそれまではただのリーフ
マイナーなのである.常に決まった齢期からゴール形成が突如として始まるようだ.リーフマイナーとして過ごす最後の齢期と,ゴール形成を始める齢期との間
で,著しく発現量が異なる遺伝子とかはないのだろうか?
こんな実験も今の時代なら可能である.というか,来ようと思えば地球の裏側のジャングルでも気軽に来れてしまう.予算の申請と獲得を含め,それなりに苦
労はあるが,少なくとも飛行機は毎日飛んでいるし,ゲノムを大規模解析してくれる機械も存在する.本当にいい時代に研究ができているなあと思う.
そして今,まさにフレンチギアナにてこの原稿を書いているのだが,今回の調査で新たな「途中からゴールを形成するホソガ」が見つかった.しかもこの種は
これまで我々が注目していた種よりも個体数が多く,何よりもカイエンヌから車で1時間ほどのクールー Kourou
という町の近くでたくさん見つかる.ヘリもボートも必要ない.灯台元暗しとはこのことか.というわけで,次はこの種を累代飼育してみるプロジェクトを立ち
上げよう,ということになった.
さて,話はロケットに戻るのだが,クールーにはフランスのロケット打ち上げセンターがある.ちょっと内陸に入ったところには,ロシアのソユーズの打ち上
げセンターもある.何というか,宇宙を身近に感じる場所なのである.ライトトラップのセットアップ後,クールーの市街地でビールを買い込み,近くの浜辺へ
と急ぐ.すでに多くの人が浜辺の岩場に腰掛けており,みんなが打ち上げセンターのある西の方角を見ている.打ち上げ予定時刻は午後6時34分であり,ちょ
うど夕日が沈んだ直後ぐらいだ.
そんなこんなで,大西洋の浜辺にて,大地に沈む太陽を見ながらビールで乾杯.これだけでもいい眺めだね,とかみんなで話していたら,突如西の方角が明る
くなった(写真4).ついさっき沈んでいった太陽がもう一度昇ってきたかのようなオレンジ色の光の塊が現れ,ゆっくりと,でも確かに登っていく.まるで朝
日が昇るのを早送りで見ているかのようだ.なるほど,天才何チャラの歌は,こういうことを歌っていたのか,と思ったのは日本人の私だけだろうけど,そうい
うしょうもないことを考えているうちにもロケットはどんどん南東へと進んで行く.
ロケットの爆音が届いた頃には,頭の上に飛行機雲ならぬロケット雲が(写真5).まるでマインのようだ,と研究者一同大盛り上がり.そして,周りの観衆も打ち上げの成功を祝して大きな拍手をしている.まるで何かのお祭りのようだ.
ロケットの打ち上げなんて,すぐに終わるイベントだろうと思っていたけど,天候にも恵まれ,2つのブースターが切り離されて落下していくまで,実に3分
ぐらいは見ていたと思う.そして,これだけ長い時間ロケットを見ていると,色々なことを思い出す.そういえば小さい頃,テレビでロケットの打ち上げを見る
のが好きで,いつかは実際に見てみたいと思っていたこと,さらには,将来は生物学の道に進もうと思っていたけど,高校で物理を習って結構本気で物理学もい
いかもと思ったことなど.
高校で習った物理は,小さい頃ロケットの打ち上げを見て感じたワクワク感の正体を暴いてくれた気がする.つまり,あんな巨大ものがどのような仕組みで宇
宙まで飛んでいくのか,そして,宇宙の果てはどうなっているのか? つまり,自分は理屈っぽいことが好きなんだろうなと思う.だから生物学の道に進んで
も,種分化とか寄主適応の遺伝基盤とか,そういうテーマが好きなんだろうなあ,と妙にロケットを見ながら納得してしまった.そんな風にして,種分化と寄主
転換と宇宙の果てに思いを巡らしながら,改めてロケット雲のマインを眺めてみると,マインの先端にある光の塊がゴールに見えてくる.
ゴールを形成できるようになるためにはどのような遺伝的変更が必要だったのだろうか,そして,リーフマイナーとして幼虫期を完結する昆虫がたくさんいる
中で,どうして今回見つけたようなホソガは幼虫期の途中からゴールを形成するようになったのか? そんな,至近要因と究極要因に関する疑問がどんどん湧い
てくる.やっぱり理屈っぽい話になるなあ,と自分でも思うとともに,生物をやらなかったら今回のロケットの打ち上げも見ることはできなかったのだろうな
あ,とも思う.不思議なものである.
さて,こんな感じでフレンチギアナでの調査はいつも予想外の刺激を与えてくれる.次がいつになるかはわからないが,次回はどんな驚きが待っているのだろ
うか.ソユーズの打ち上げでもいいけれど,できれば「途中からゴールを形成するホソガ」の研究から,大きな驚きが得られればと思う.フレンチギアナのホソ
ガ研究も,そろそろ単なる expedition から experimental biology
へと,今回のロケットの様にうまく軌道にのせていきたいものである.
写真1. ヘリコプターからのアマゾン熱帯雨林の眺め.
写真2. ボートに乗って川を上っている様子.両岸ともに,手つかずの熱帯雨林である.
写真3. 幼虫期の途中から突如としてゴール形成を始めるホソガ.赤くなっている部分がゴール状の部分.寄主植物はフクギ科の Clusia blattophila.
写真4. ロケットが今まさに空へ上がっていこうとしている瞬間.夕日と同じぐらいか,それ以上に眩しい.
写真5. マインの様に見えるロケット雲.右下には,切り離されて落下していく2つのブースターが見える. |
大島 一正
京都府立大学大学院生命環境科学研究科
助教
|
2015.04.20
No.17 秘境 高天原を目指して 二橋 亮
1998年8月。大学2年生
だった私は、新聞の天気図とにらめっこする日が続いていた。この年、西日本の各地で見つかっていた南方系飛来種のオオギンヤンマが、前線の北上とともに富
山県にやってくるのを今か今かと待ち構えていたからである。この年は8月になっても前線が本州に停滞していて雨が多かった。1998年8月24日の朝、新
聞の天気図を見ると、前線が途切れて北陸地方に南からの風が流れこんでいた。今日は狙い目だ。夏休みで実家に帰省していた私は、オオギンヤンマが見つかる
ならここだろうと、8月になってから2日に1度のペースで通い詰めていた海岸沿いの池に父と二人で出かけた。目にするのはギンヤンマばかり。今日も期待外
れかと思って帰ろうとしたとき、池を群れ飛ぶ多数のギンヤンマに混じって、やや黒味の強いヤンマが1頭混じっていることに気がついた。そこから父と二人
で、挟み撃ちでそのトンボを狙った。30分ほどかけて、ようやく採集してみると、まぎれもなく富山県初記録のオオギンヤンマだった。採集した直後に、近く
の工事現場の監督員の人から声をかけられた。何をしているのか聞こうと思っていたが、二人があまりにも真剣なので声をかけられなかったのだそうだ。その日
の夕方、富山県のトンボを一緒に調べていた荒木克昌さんに電話すると、「天気図を見て今日は怪しいと思っていたんですけど、仕事があって行けなかったんで
すよ」と少し悔しそうだった。
2001年7月。やはり毎日のように天気図を眺めていた。ようやく採集許可が下りた北アルプスの奥地、高天原へ調査に行く日程を考えていたからである。
最短の登山道コースタイムで12時間半もある高天原を調査するには、最低でも3日は必要である。当時、私は大学院の修士1年生だった。今から調査に行こう
と決めた朝、「調査のため3日ほど休みます」、と当時の指導教官にメールを入れて、そのまま登山道へと急いだ。狙いは高原に生息する黒くなるアカトンボの
一種、ムツアカネである。北陸地方からは未記録で、富山県から発見される可能性は低いと書かれた文献もあったのだが、地図を眺めていて高天原ならいるかも
しれないと前から目星をつけていたのである。しかし、高天原に到着した翌日に早朝から調査していたのだが、一向に見つからない。夕方になり、同行者から、
「せっかく高天原に来たのだから、有名な高天原温泉に入ろう」と提案された。けれども、一分でも調査の時間の惜しかった私は、そのお誘いを断り、荒木さん
と二人で夕方もひたすらトンボを探していた。さすがに甘くないかと諦めかけていたとき、荒木さんの「いました!」という叫び声が聞こえてきた。荒木さんの
網を見ると、それは紛れもなく北陸地方初記録のムツアカネが入っていたのだった。ちなみに、有名な高天原温泉には、未だに入ったことがない。
私は、物心ついた頃から昆虫が好きで、特にトンボが一番好きだった。虫屋にはいろいろなタイプの人がいるが、私は珍しいトンボの新産地探索に特に力を入
れていた。しかし、当然ながら結果の出ない日がほとんどある。結果が出なかった例を挙げると、いくらページがあっても書ききれない気がする。今回紹介した
2つの例は、私の予想がほぼ狙い通りに的中した数少ない例である。これらに関しても、今から思い返すと一歩間違えれば見落としていた可能性が高かったもの
である。その後、博士号を取得し、本格的に研究を行うようになった現在、昆虫採集と研究は似ている面が多いように感じている。「狙い通りに良い結果がでる
ことは本当に少ない。」「けれど地道な努力を続けていれば、たまには重要な結果が出る。」「しかし、注意していないと重要な発見に気づかずに終わるのかも
しれない。」などなど。今は、かつて高天原の調査を計画していたときのように、新しい発見に期待を膨らませて実験計画を考えては、期待と異なるデータが出
てくることも多いが、貴重な結果を見落とさないように心掛けている。
|
元旦にムカシトンボの幼虫調査を行う様子
二橋 亮
産業技術総合研究所主任研究員
|
2015.02.15
No.16 昆虫と植物 長谷部 光泰
どういうわけか、もの心付いて
からずっと植物が好きだったので、昆虫の明確な記憶は小学校一年生の夏休みの自由研究です。段ボール箱に野山の絵を描き、それぞれの昆虫の成育場所に虫を
配置しました。1970年代初頭は生態の中で生物を理解するという時流だったのでその影響だったのかなと思います。町中に住んでいたので、オオムラサキが
良く来るクヌギの木があったのですが、あこがれのカブトムシやクワガタはおらず、カナブンばかり。そのうち、友達の家にあった食虫植物に心を奪われ、今日
に至っています。
大学は植物学教室で大学院の研究室は植物園にあったので、学部で高橋景一先生の無脊椎動物学を受講して、R.M. Alexanderさんの「The
Invertebrates」を読んで無脊椎動物の多様性に魅惑されたのと、石川統先生のゼミで茅野春雄先生の「昆虫の生化学」を半年かけて読んで面白い
なと思ったくらいで、昆虫との深いつきあいはありませんでした。大学のサークルは生物学研究会で、水生昆虫屋の坂本竜也くんや田辺秀之くん、クワガタ屋の
濡木理くん、虫全般の深津武馬くんなど虫屋はたくさんいたのですが、清澄に行ってもルーミスシジミよりはナガサキシダモドキに魅力を感じていました。
虫に興味を持ちだしたのは縁あって基生研に来てからです。赴任してしばらくして、所長の毛利秀雄先生がラボに来て「長谷部君、チョウやらないか」といき
なりおっしゃって、自らピペットマンを握って、技術支援員の百々由希子さんに実験を教え出しました。その後、九大の三枝豊平先生から集中講義の機会をいた
だき、伺ってお話をしているうちに、三枝先生が妻の祖父の江崎悌三先生のお弟子さんであることがわかり、また、三枝先生がクレマチスの育種家で食草として
以上に植物に精通されていたこともあり、その後、多々ご指導いただいています。また、矢後勝也くんをはじめ多くのお弟子さんにも御世話になっています。毛
利先生は、日本で平行的に生じていたチョウのDNAを用いた系統解析グループがうまく情報交換できる場を作れないかと考えられ、蝶類DNA研究会を設立さ
れました。この会は蝶類に限らず、昆虫全般にまたがり、学部学生のころからいろいろご教示いただいていた分子進化学の大澤省三先生や、授業で集団遺伝学の
いろはを教わった尾本恵一先生の昆虫学者としての一面をはじめ、多くのことを学ばせていただきとても有益でした。渡辺一雄先生には、ギフチョウ採集に連れ
て行っていただいてカンアオイの進化に興味を持つきっかけを作っていただいたり、その後もいろいろな事で御世話になりました。
研究面では、基生研OBの阿形清和さんや植物学教室の一つ後輩の塚谷裕一くんと日本ではじめてのエボデボのシンポジウムを「動物と植物の発生の違い」と
いうテーマで開催し、動物を植物と比較することの面白さに気づきました。そして、基生研の上野直人さんが代表をされた動物発生の特定領域で、ハナカマキリ
とコオロギを研究されていた野地澄晴先生の班に加えていただき、動物の方々と5年間同じ研究グループに所属し、多くの刺激を受けました。その班会議の時
に、蛾好きの倉谷滋さんを勝手に師匠と仰ぎ、班会議の休み時間や夜に虫取りに励み、その流れで、月刊誌「遺伝」に動物と植物の発生の違いについて2002
年から2年間リレー対談をさせていただきました。この内容、若さ炸裂、今でも面白い点が多いので図書館で探してみて下さい。その頃、移動する話があったの
ですが、移動したくなかった妻の「近所にいい山が売ってるよ」というすばらしい内助により、ひと山買って(山林はおどろくほど安く税金もほとんどかからな
いのでお勧めです)、毎週、灯火採集で昆虫箱にいくつも虫を集め、クワガタブームもあっていろいろな種類のクワガタを育てました。そして、都立大学に集中
講義に伺ったときにいろいろ進化についてお伺いしたことのあった石川良輔先生の「昆虫の誕生 :
一千万種への進化と分化(中公新書)」に出てくる昆虫をシミからチョウまで採りまくり、体系だって昆虫の勉強をすることができ、ますます興味が湧きまし
た。この頃、パプアキンイロクワガタの色彩多型に興味を持ち、ラボの培養室の棚下を使って一人で数百匹の交配実験を始めました。ただ、長期出張すると世話
に困るのと、継代するにつれ近親交配の影響がひどく、6代ほど継代したところで中止してしまいました。この続きは定年後にやろうと思っています。
毛利先生の研究はどんどん進展し、三枝先生、千葉秀幸さん、八木孝司さんを始めとした先生方のご協力のもとセセリチョウの系統についての論文を発表でき
ました(Tanikawa-Dodo et al.
2008)。このころ、東大でゼブラフィッシュで生物時計を研究していた真野弘明君が子供のころからハナカマキリの研究がしたかったんだけど、どうしたも
のかと相談に来ました。そんな面白いもの学振特別研究員に出したらぜったい通ると励ましたところ、見事な申請書を書き上げ無事採択されました。さらに、北
大農学部にいた大島一正君が、学振特別研究員としてクルミホソガのホストレース転換の仕事をうちでやりたいといきなり訪ねてきて、たしかに我々のゲノム技
術と組み合わせれば、ホストレース転換の原因遺伝子が単離できそうだったので、学振特別研究員への申請を了解したところ、これまた採用されました。植物関
係で申請していた方も他にいたのですが、いつも通るのは昆虫ばかり、しかも、極めて個性的かつムードメーカーの二人が植物ばかりだった研究室に加わり、い
ままでと違った雰囲気で一同、多いに盛り上がることとなりました。大島君は、百々さんが実験を行い、毛利先生と三枝先生が中心となって進めていたタテハ
チョウの系統の論文を生物地理とホストレース転換の観点から面白くまとめてくれました(Ohshima et al.
2010)。ハナカマキリの擬態とクルミホソガのホストレース転換原因遺伝子はもっか研究進行中ですので、結果はお楽しみに。また、大島君とホストレース
転換の研究について折々いろいろ議論していくうちに、「複合適応形質の進化」の代表例であることに気づきました。複合適応形質とは、一つの変異では適応度
が下がってしまうが、いくつかの変異が重なると適応度があがるように見える形質です。例えば、ホストレース転換は、幼虫が新しいホストを食べられるように
なる変異と雌親が新しいホストに産卵するという2つの変化が起こってはじめて進化します。幼虫と雌親の両方の形質が進化する、しかも、同じホストに転換す
るように進化することは極めて困難に思われますが、昆虫ではホストレース転換は頻繁に起こっており、なんとも不思議です。これが一つのきっかけとなって、
亀の甲羅の倉谷滋さん、アゲハの擬態の藤原晴彦さんと堀寛先生、昆虫の共生の深津くん、カイコのホストレース転換の嶋田透さんたちと新学術領域を立ち上げ
ることができました
(https://staff.aist.go.jp/t-fukatsu/SGJHome.html)。
さて、そんなわけで、私はもっぱら植物中心に研究を進めているのですが(http//www.nibb.ac.jp/evodevo;http://www.nibb.ac.jp/plantdic/blog/; http//www.nibb.ac.jp/evodevo/tree/00_index.html)、
いつも動物、特に昆虫と比較する癖がついてしまいました。植物を見ながら、動物ではこんなことはおこるのかな、動物の何にあたるのかなあ、といつも考えて
います。昆虫は、転写因子によってひとかたまりの組織を区画化して発生しますが、植物が花を形成するときに似たような仕組みを使っています。また、一つず
つ末端を増やしていく脊椎形成は、植物の分裂組織が繰り返し葉を作って伸びている様式と似ています。一方、細胞がレセプターの変化で動く場所を変えること
によって新しい器官、例えば顎が形成されるというようなことは、細胞が動かない植物では無いのかなと長らく思っていました。
ところが、年始めに面白いことがありました。ダーウィンがビーグル号で航海したころから、チリ南端にCaltha dionaefolia(食
虫植物のハエトリソウに似たリュウキンカ)という植物が知られていて、食虫植物ではないことはすでにわかっているのですが、その奇妙な形がどうしてできた
のか不思議に思っていました(図1)。たまたま、チリ南端のナバリノ島でコケの国際学会があったので、ついでに自生地を見に行きました。生のサンプルを良
く観察すると、たぶん、葉の一部が曲がって癒合したものかなと思えてきました。また、近所に別の種類のCaltha appendiculataと
いう種類も生えていて(図2)、こちらはさらに癒合がすすんで葉の上から葉が生えたようになっているのがよくわかりました。それぞれ以前に標本で見たこと
はあったのですが、自生地でいろいろな発生段階かつ個体変異のある集団を見ると、書物や標本だけを見るのとはかなり違った考えが誘発されてきます。南極の
寒風ふきすさぶ山の上で、ふっと思い出したのが金魚葉ツバキでした。この園芸品種、普段は葉先が切れる表現型なのですが(図3)、ときどき、葉の先端にも
う一つ葉を付けたような葉を形成します(図4)。これ、どうも、切れた葉の縁がくっつくとこのような表現型になるんじゃないかと思っていたのですが、リュ
ウキンカの葉の癒合と一緒に考えると、植物の新規形質進化における癒合の役割を調べてみたいなあ、と思えてきました。さらに、食虫植物のウツボカズラの突
然変異体で袋が閉じずに開いてしまうものを見たことがあり、もしかしてこれも癒合で進化したのかなどなど、いろいろなことが思い出されてきて、おもわず、
にやにやしてしまいました。さらに、動物の細胞移動って、要は、細胞同士の接触を変えることだけど、植物の癒合って今まで接触しなかった細胞が接触して新
しい形ができることだから、実は、仕組みとしては同じことじゃん、と気づき、おもわず、そっかあ、と口に出してしまいました。
一方、植物特異的かなって思える発生様式もあるかなと思います。ナバリノ島では電子メイルが読めなかったのですが、トランジットの時に、たまたま運良く
北米に自生する食虫植物サラセニア(図5)の捕虫葉形成の論文のレビジョン結果が届き、夜更かしして検討し、対応を筆頭著者の福島健児くんにお願いしまし
た。その論文(Fukushima et al.
accepted)は、サラセニアの捕虫葉は葉原基の特定の場所で細胞分裂方向を変化させることで袋ができるという、細胞分裂面制御がまわりまわって異
なった階層での大きな形態変化を引き起こしたという発見をまとめたものです。植物細胞は動けないので細胞分裂面の制御が後の形態形成に大きな影響を与えま
す。動物でも細胞運動が制約されている組織があるので、たぶん、似たような仕組みで進化した器官がきっとありそうです。ただ、私のように分野外のものが、
動物全体の文献を見直すのはほとんど不可能です。こんなときは、物知りに相談するのが一番。昆虫DNA研究会は、ふだんは接点のあまり無い昆虫関係の先生
方にお会いでき、いろいろ教えてもらえるので、かけがいのない知的好奇心充足の機会になっています。ぜひ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
Fukushima, K., Fujita, H., Yamaguchi, T., Kawaguchi, M., Tsukaya, H.,
and Hasebe, M. Oriented cell division shapes carnivorous pitcher leaves
of Sarracenia purpurea. Nat. Com. Accepted.
Ohshima, I., Tanikawa-Dodo, Y., Saigusa, T., Nishiyama, T., Kitani, M.,
Hasebe, M., and Mohri, H. (2010). Phylogeny, biogeography, and
host-plant association in the subfamily Apaturinae (Insecta:
Lepidoptera: Nymphalidae) inferred from eight nuclear and seven
mitochondrial genes. Mol. Phylogenet. Evol. 57: 1026-1036.
Tanikawa-Dodo, Y., Saigusa, T., Chiba, H., Nishiyama, T., Hirowatari,
T., Ishii, M., Yagi, T., Hasebe, M., and Mohri, H. (2008). Molecular
phylogeny of Japanese skippers (Lepidoptera, Hesperiidae) based on
mitochondrial ND5 and CO1 gene sequences. Trans. Lepid. Soc. Japan 59:
29-41.
図1 Caltha dionaefolia
図2 Caltha appendiculataの1枚の葉。
図3 金魚葉椿の先端が切れこんだ葉
図4 金魚葉椿の葉の先端にもう一つ葉ができたような葉
図5 サラセニアSarracenia purpureaの1枚の葉
|
基部被子植物のDrymisにご満悦!
チリ南部にて
長谷部 光泰
基礎生物学研究所 生物進化研究部門教授
|
2014.07.08
No.15 ベニシジミ類の謎
矢後 勝也
ベ
ニシジミという蝶をご存じで
あろうか。草原や田畑の路傍などでよく見られる小さな橙色のシジミチョウである。この仲間は世界からおよそ100種が知られており、その多くは草原性であ
るが、熱帯適応の種では森林性の属もある。幼虫は主にタデ科植物を食草とするが、北方では全く類縁のない植物に依存するものがいる。翅形や斑紋はかなり多
様で、一部では擬態も加わり、しかもこの多様性は雄交尾器等の形態の変化とはしばしば関連が見られない。また、ベニシジミ類の分布はかなり特異で、主に
ユーラシア大陸や北米に産するものの、ボルネオ、パプアニューギニア、中米、南アフリカ南部、ニュージーランドのような地域に少数の種が隔離分布してい
る。ところがこのグループの謎はこれだけではない。上記の翅の翅形・斑紋と雄交尾器との関係だけでなく、これらの形態変化と地理的分布との関連性さえも全
くないものばかりで、系統的な繋がりがさっぱり見えてこないのである。
この不思議さに最初に気付いたのは、「構造主義生物学」で著名な故・柴谷篤弘先生であった。1974年に先生はこれまでベニシジミ類の分布が全く知られ
ていなかったパプアニューギニアから新属Melanolycaenaを
創設して2新種M. altimontanaとM. thecloidesを
記載し、合わせて世界の主なベニシジミ類に関する高次分類の再検討を行った。その折に本群から形態や生態、地理的分布との関連でこのような秘めたる問題を
見出し、解明できれば「進化」や「適応」、「擬態」といった一般的問題を解くのに参考になると考えた(柴谷,
1999)。この矛盾だらけのグループにずっと興味を持ち続けておられたようだが、その謎を長く解き明かせないままであった。
1998年に修士院生として九州大学の大学院へ進学した私は、当時の世話人指導教官であった昆虫の形態学および系統学の権威、三枝豊平先生からの勧め
で、このベニシジミ類の高次分類の再検討と系統進化学的な研究を修士論文のテーマを選んだ。もちろん、三枝先生が柴谷先生からこの不可解な謎を聞いていた
のがきっかけである。この研究を行うにあたり、まずは柴谷先生からの承諾をもらうこと、合わせて本研究への協力を要請することを三枝先生からご指示頂い
た。早速、柴谷先生に手紙を書いてこれらのお願いを綴った手紙を送付したところ、間もなく丁寧なご返事が届いた。そこには私からのお願いに関する快諾と、
ご自身のコレクションが収蔵されている兵庫県立人と自然の博物館に足を運んで標本を見直したことが書かれてあった。その後、さらに二往復の手紙と電話のや
り取りを続け、柴谷先生と兵庫県博で直接お会いして本研究の問題と展望をご教示頂いた。柴谷先生と言えば、ベニシジミ類もさることながらゼフィルスの研究
でも金字塔を築き、フジミドリシジミの属名にも献名されているチョウ類研究の大家である。当時から丸出しのチョウ屋だった私にとって、柴谷先生は構造主義
生物学を唱えた理論学者としてよりも、むしろチョウ類の分類学者としてお会いした緊張と嬉しさの方が高かったことを憶えている。
一年半後、私は修士論文をなんとかまとめ上げ、ベニシジミ類の系統分類学的研究については一応の区切りがついたが、実は系統の部分ではしっくりこない違
和感があった。つまり、形態データを用いた系統解析ソフトによる最節約法で導かれた結果にあまり自信がなかったのである。それでも、柴谷先生にはお見せし
てご意見を伺いたいと思い、期待と不安が入り混じった気持ちで修論提出の前にその内容を郵送した。間もなくして、柴谷先生から一通の手紙が届いた。そこに
は「・・・そのうち廃人になるのではないかと、おそれおののいています。・・・字を書く能力も減少しつつあります。あいすみません、これ以上はムリのよう
です。」と記されてあった。これまで手紙のやり取りを先生と続けていた中で、さすがにこのような文章は見たことがなく、すぐに先生の体調を心配する気持ち
が込み上げた。この頃には、すでに気力や体力が衰えていたのであろう。その一方で、先生のご期待にお応え出来なかったのかもしれないという失望感も襲っ
た。先生のお考え以上のものを脱していなかったのであろうか。
その後、博士課程に進んだ私は、テーマをシジミチョウ科全体の幼虫形態と系統学に関する研究に広げたため、ベニシジミ類の研究をさらに追求することはな
かった。それでも系統関係の違和感や不安感はずっと拭えなかったため、機会があれば是非とも分子系統学的なアプローチから形態で得られた結果を検証したい
と考えていた。学位取得後、私は基礎生物学研究所の長谷部光泰先生の紹介で、陸産貝類の分子系統学的研究で知られる東京大学の上島励先生のところにポスド
クで雇用された。勤務時間外は自身の研究をしても良かったので、これはチャンスと早速ベニシジミ類の分子系統解析を始めることにした。この時のために
DNAサンプルだけは溜め続けていたのである。ミトコンドリアと核の双方のDNAから系統解析を進めながら、不足しているサンプルを求めてアフリカや中米
グァテマラなどにも訪れ、ようやくベニシジミ類の高次系統における全体像が見えたのは、本研究の着手から約10年後のことであった。
結果が出てみれば、系統地理学的な観点から最もリーズナブルに解釈できるものであった。例えば、パプアニューギニアに生息するMelanolycaena属は翅の斑紋や前脚跗節の形態から中米のIophanus属に近縁かもしれないとされていたが、分子系統ではむしろ外
観が異なるニュージーランドのグループと姉妹群を形成し、さらに双方を合わせた一群はチベットや中国西部の高地に生息するHelleia属
に近縁という進展則(progression
rule)でほぼ説明できる。では、分子系統解析による結果が実際に正しいかどうかが問題となるが、これを受けて形態を見直すと、不思議なことに今まで気
付かなかった共有派生形質が次々と見え始めた。このように分子系統の凄さを実感すると同時に、形態の収斂や平行進化は想像を超えて短期間で起こることが分
かり、二重の驚きが沸き上がったのである 。
柴谷先生の生前にこの結果をお見せしたかったのだが、それが叶わないのが唯一の心残りとなった。まだ海のものとも山のものとも覚束ない一介の修士院生
だった私に、多くのことをご教示下さっただけでなく、これまで書き溜めていたシジミチョウ科の雄交尾器の原図までを先生は私に託された。最近、それらの描
図を眺めては、本来受け取る資格があるだけの研究者に成れているかどうかを自分自身に問うと、まだ何も成し得ていないことに気付き、なお一層の努力が必要
であることを認識するのである。
|
矢後 勝也
東京大学総合研究博物館 助教
|
2014.02.07
No.14 今、伊豆諸島が面白い
荒谷 邦雄
私が初めて父と伊豆諸島の八丈島に採集に訪れたのは、今から30年以上前の中学3年の夏休みだった。当時、カミキリムシに大きな興味を抱いていた私にとっ
て、ハチジョウトゲウスバカミキリやハチジョウコバネカミリなど多数の八丈島固有のカミキリムシの珍品との出会いはまさに狂喜の連続だった。しかし、程な
くしてその幸せな状況は一変する。
「この島にはノコギリクワガタも沢山いるよ。」宿のご主人からその一言を聞いたのは初日の夕食の時だった。その時には、本土からこんなに離れ
た島にもノコギリクワガタがいるのだと少々驚きはしたが、7月下旬というクワガタムシ採集のベストシーズンと思われた時期であっただけに、沢山いるのであ
れば滞在中に簡単に採集できるものと、正直、高を括っていた。しかしながら連夜の灯火見回りでもノコギリクワガタは全く姿を見せない。3日目の昼間に島内
で最も良好な森林環境が残っている三原山の中腹を貫く林道上で、ノコギリクワガタと思われる翅の一部を拾った。こうなると是が非でも生きたノコギリクワガ
タの姿が見たくなった。最後の晩は目標をノコギリクワガタ一本に絞って必死の灯火探索を敢行した(父は虫屋でもないのに、私のために夜通しでレンタカーを
運転する羽目になった)にも関わらず、結果は惨敗に終った。 離島当日の朝、どうしても諦めきれない私は「最後の賭け」と称して、渋る父を説得し、宿から
わざわざ遠回りをして件の三原山の林道を抜けて空港に向かってもらった。しかし、願いもむなしく前日にノコギリクワガタの翅の一部を拾った場所を過ぎても
何も目立った成果はない。峠を下り、空港のある大賀郷の集落が見えると父は車のスピードを上げた。と、その時、レンタカーの車窓から路上にひっくり返って
いたクワガタムシの姿がはっきりと見えた。「いた!」そう叫ぶが早いか、私は車が停止するよりも早くドアを開けて外に飛び出した。最後の最後にやっとの思
いで死にかけたノコギリクワガタの小型の雄を拾うことができた瞬間だった。あの時の興奮は今でもはっきりと覚えている。たった1頭のしかも死にかけた小型
の雄ではあったが、生まれて初めて見た八丈島のノコギリクワガタは真っ黒で、まさに異国情緒たっぷり、慣れ親しんでいた本土のノコギリクワガタとは全く異
なった存在に見えた。
その後、学校の図書館にあった北隆館(昭和38年刊行)の「原色日本昆虫大圖館第2巻(甲虫編)」を調べてみると、この八丈島のノコギリク
ワガタは採集時の直感どおり、ハチジョウノコギリクワガタssp.
hachijioensis(当時の私にはこの表記の意味すら分からなかった)と呼ばれる八丈島と三宅島にしかない極めて特別なものであること、その一方
で本土のノコギリとの生態の違いなどに関しては全く解明されていないことを知った。「次こそこの特別なノコギリクワガタを思う存分に採集して、その生態を
解明したい!」それ以来、私の八丈島詣が始まった。
幸い私の実家(愛知県)の両親は放任主義で(もしかすると父は先の八丈島での経験で懲りたのかもしれないが)、未成年の私が単独で、しかも
学期中に(大きな声では言えないが当然学校を休んで)遠方の採集地に通うことも黙認してくれた。お陰で中学・高校時代の訪島を通じて、多数のハチジョウノ
コギリクワガタを採集できただけでなく、成虫の発生時期は本土産よりもずっと早く5〜6月であり本土での経験からベストシーズンと思っていた7月下旬では
遅過ぎたこと、歩行傾向が強く夜間にも活動するが灯火には集まらないこと、幼虫は枯れ株の根部や倒木の接地面に穿孔すること、雄が倒木の下で縄張りを張り
産卵にくる雌と交尾するために待ち構えていること、などハチジョウノコギリクワガタに関する数多くの新たな知見を得ることができた。ハチジョウノコギリク
ワガタ以外にも、ハチジョウネブトクワガタや当時まだ記録のほとんどなかったヒラタクワガタやコクワガタも採集し、亜社会性(家族生活)を送るチビクワガ
タの興味深い生態も解明することもできた。大学生になってからは八丈島だけでなく、御蔵島や三宅島にも渡り、ミクラミヤマクワガタやマメクワガタの採集に
も興じた。
ちなみに、私にとっての初めての報文である「八丈島におけるキボシカミキリの採集例」という短報(月刊むし No.
190:21-22.)は、この頃に八丈島で得られた標本に基づくものであったし、ハチジョウノコギリクワガタやチビクワガタの生態観察の結果は、その後
の修士論文「クワガタムシ科甲虫の繁殖生態」の主要部分となった。こうして見ると中学〜大学教養課程までの最も多感な時期に経験したこの一連の伊豆諸島詣
は、まさにその後の昆虫研究者としての私の原点となったと言っても過言ではない。
80年代後半から90年代半ばにかけて、いわゆるクワガタムシブームを背景に、伊豆諸島のクワガタムシに関する分類学的な研究が急速に進み、ハチジョウ
ヒラタクワガタやハチジョウコクワガタ、イズミヤマクワガタなどの新タクサが次々に記載された。ハチジョウノコギリクワガタに関しても、その独自の形態や
生態的特徴から「御蔵島以北の本土系ノコギリクワガタとは別系統の八丈島固有の独立種」とする興味深い見解が示された。一方、その頃の私は専ら琉球列島や
マレーシアをはじめとする海外の調査に没頭し、伊豆諸島とはすっかり疎遠になっていた。
しかし、数年前、思わぬ展開から私の中の伊豆諸島への情熱が再燃することとなった。きっかけはミトコンドリアDNAを用いた琉球列島のノコ
ギリクワガタ類に関する系統地理学的解析だった。解析に際して、南九州の亜種を含む本土各地のノコギリクワガタとハチジョウノコギリクワガタも加えたが、
結果を得る前、私は、ハチジョウノコギリクワガタが本土のノコギリクワガタとは別系統の種であり、いわば遺存固有種として八丈島に隔離分布したものである
ことが分子でも裏付けられると予想していた。ハチジョウノコギリクワガタの姉妹群候補として、雌の形態の類似性から中国や台湾に分布するマルバネノコギリ
クワガタを想定していた程である。しかし結果は予想外のものだった。ハチジョウノコギリクワガタは伊豆諸島の一部のノコギリクワガタ個体群と単系統群をな
し、しかもその分岐の程度はその他の本土産ノコギリクワガタの地域個体群間の変異と大差ないごく浅いものだったのだ。続いて実施したハチジョウノコギリク
ワガタと本土産ノコギリクワガタの詳細な形態測定学的解析の結果からも、ハチジョウノコギリクワガタにみられる形態や生態面での特殊化は、樹液という解放
的な餌場空間で喧嘩をする必要がなくなったために、コストのかかる大アゴの伸張をいわばやめてしまった結果として急激に生じたものであろうことが示唆され
た(これらの解析結果の詳細は2009年発行の昆虫DNAニュースレターNO. 2で紹介している)。
折しも、それまでごく僅かな個体しか採集されておらず、ほとんど知見の得られていなかった三宅島や御蔵島のノコギリクワガタ(私も採集して
おらず、当然、上記の分子系統解析にも使用できていない)が精査され、それぞれが本土の個体群とは別亜種として記載されるという事件(?)が相次いだ。こ
うなると三宅島や御蔵島の個体群を含む伊豆諸島全域のノコギリクワガタの分子系統地理学的解析を実施せずにはいられないし、ミヤマクワガタやヒラタクワガ
タ、コクワガタなどの解析結果も大いに気になってきた。幸い、長旅を覚悟せねばならなかった昔とは違って、今はヘリコプター路線も整備されて短期決戦で伊
豆諸島各島に出かけられる。それからは公務の合間を縫って、酷い時には現地滞在数時間という強硬日程で、各島の調査と解析サンプルの採集を繰り返すことに
なった。
こうして得られたサンプルに基づく伊豆諸島のクワガタムシに関する分子系統学的解析は、現在、まだ進行中の段階にあるが、予報的な解析から
は予想外の興味深い結果が数多く得られている。特に、御蔵島と神津島にしか生息しておらず世界的に見ても特筆される伊豆諸島の固有種として有名なミクラミ
ヤマクワガタの解析結果にはハチジョウノコギリを越える驚きがあった。
ミクラミヤマクワガタは小型のミヤマクワガタで同属の中では祖先的な種とみなされている。形態的な特徴から中国南部の黄河流域に分布するラ
エトゥスミヤマクワガタやパリーミヤマクワガタと同じ種群に含まれるとされ、従来の考察では、ミクラミヤマクワガタは、祖先種が中国大陸から日本、そして
伊豆諸島へと侵入した後、日本本土では何かの理由で滅んでしまい、伊豆諸島の御蔵島と神津島のみに生き残った、いわゆる典型的な遺存固有種と見なされてき
た。実際にDNA解析の結果からも本種がこれら中国産の種に近縁であることが裏付けられたが、その一方で、非常に興味深いことに中国産の近縁種とミクラミ
ヤマクワガタの遺伝的な距離は驚くほど近く、ミクラミヤマクワガタの祖先種の伊豆諸島への侵入(分布拡大)はごく最近に生じた可能性が示唆された。我々は
この結果から、ミクラミヤマクワガタの祖先種は伊豆諸島に隔離されたのではなく、古黄河の大氾濫によって比較的新しい時代に中国大陸から伊豆諸島に漂着し
た可能性が高いと睨んで、現在、その裏付けのための検証を試みている。
加えて、伊豆諸島には、系統地理のみならず、進化生物学的にも非常に興味深い題材が豊富にあることも明らかになってきた。例えば、調査の過
程で伊豆諸島のクワガタムシでは固有タクサやその近縁分類群の構成種や優先種が島毎に異なり、しかもそれぞれの固有タクサの生態や生活史が島間で大きく異
なっているなど非常に興味深い現象が観察されることが分かった。こうした島間の群集構成の差異や各島の個体群に固有な適応形質の進化には、自然選択はもち
ろん、漂着をはじめ偶発的な分散によって侵入した祖先個体群に働いた創始者効果や遺伝的浮動、さらには遺伝子流動や種間の競争など様々な要因が複雑に絡み
合っているらしいことも推定された。また、古くから議論のあった古伊豆半島説に代わって、最近ではフィリピン海プレートの北上に伴う伊豆半島の岩体の本州
への衝突と丹沢山地の形成など伊豆諸島の生物地理学に密接に関係する地球科学的な知見も蓄積されてきたことも今後の伊豆諸島の生物相に関する研究を大きく
進展させる要因となるだろう。
東洋区と旧北区の境界に位置し、東洋のガラパゴスと呼ばれるほど独自の生物相を育んできた琉球列島や、固有遺伝資源の宝庫として名高い小笠
原諸島の場合ほどの派手さがないためか、琉球列島に次ぐ固有タクサの宝庫であるにもかかわらず、伊豆諸島の昆虫相に関する系統・生物地理学的な研究は大き
く立ち遅れている感が否めない。一方で、大陸が分断されて形成された大陸島である琉球列島の様々な生物に関する近年の分子系統地理学的解析によって、それ
ぞれの島の生物相の形成過程は島の成立の時期や順番と極めてよく一致することも明らかとされている。しかし、うがった見方かもしれないが、これはある意味
予想され得る当然の結果であり、分断と分散(偶発的な拡散)の双方が絡み合う伊豆諸島の生物相の成立の解明は一筋縄ではいかないゆえに遥かに面白い。そも
そも大陸が分断されて形成された大陸島である琉球列島を火山性の海洋島であるガラパゴスになぞらえる事自体がナンセンスであり、この点ではむしろ伊豆諸島
の方がよほど「進化の実験場」たる東洋のガラパゴスと呼ばれるにふさわしいように思う。
このように生物学的に非常に興味深い伊豆諸島だが、極めて由々しきことに、近年、開発による生息環境の破壊に加えて多数の外来種が侵入し、
その貴重な在来生態系は壊滅の危機に瀕している。歩行傾向の強い伊豆諸島の昆虫類にとってはイタチとノネコなどの大型ほ乳類による捕食は壊滅的な打撃を与
えうる。イタチやノネコ以外にも、シカやキョン、ヤギの食害による森林植性の破壊も著しい。外来種問題に関しては、琉球列島や小笠原ではその対策が大々的
に講じられているが、伊豆諸島も手遅れになる前に、一刻も早く何らかの対策をとる必要がある。そのためにも、本稿がきっかけとなって、貴重な伊豆諸島の生
物相に一人でも多くの方が興味をもち、その多様性の解明や保全に係っていただくようになることを切に願う次第である。
|
荒谷 邦雄
九州大学大学院 比較社会文化研究院 教授
|
2013.06.27
No.13 チョウ屋の実力
毛利 秀雄
前にも書いたことがあるが、私は子供の頃からの
「チョウ屋」で
はない。今でも
そうではないと思っている。たしかに小さい頃から生き物好きであり、夏ともなれば真っ黒になってセミやトンボやキリギリスを追いかけていたが、チョウを
採ったり飼ったりした記憶はない。ファーブルを夢見ていても、飼ってみたいと思ったのはセミやアリであった。
生まれた翌年に満州事変が起こり、いやでも軍国少年として育った上に、父親が職業軍人であったので、長男である私は何の疑いもなくその後をつぐために陸
軍幼年学校に入った。陸軍将校を養成するための学校で、中学一年か二年を終えて入校し、三年後に予科士官学校、さらに士官学校(今の防衛大学校に相当)に
進むのである。しかし入校二年目に敗戦となり、こちらの目的は今から思えば幸運にも果たせずに終わった。
戦後は一転して好きなことをやろうということになり、旧制高校で大学の理学部に動物学科というものがあることをはじめて知って、東大の同学科に進学し
た。卒業して最初に就職したのが三崎の臨海実験所で、ここでウニの精子で実験を始め、以後精子をめぐる諸問題に取り組むことになった。その間精子の鞭毛の
主要な構成要素である微小管の主成分を新しいタンパク質と同定してチューブリンと命名する幸運にも恵まれ、精子学という学問分野を作ることができた。ずっ
と昆虫は他の人たちの研究テーマだと思っていた。
さてチョウとの出会いであるが、ちょうど大学紛争のころに家内の親が長野県の聖高原に山荘をつくった。行ってみるとかつて平山修次郎著の「昆虫図鑑」で
しか見たことのなかったチョウやトンボがたくさんいた。そこで周りのものだけでも全部採ってみたいものと、四十の手習いで昆虫採集をするようになった。残
念ながら採れなかったが、そこにはオオウラギンヒョウモンもまだいたようである。その後オーストラリアに留学した際に、当時シドニーにおられた柴谷篤弘御
大にいろいろと手ほどきを受け、チョウにはポイントというものがあることを学んだ。その縁で尾本恵市さんや藤岡知夫さんとも知り合うようになった。
東大を定年で卒業して放送大学に行ったら、そこにはチョウの鱗粉を走査電顕で観察していた「チョウ屋」の新川 勉さんがいた。ここでチョウの精子の電顕
をやりかけたが、間もなく基礎生物学研究所の所長として岡崎に赴任することになる。後任には大学の同級生でミトコンドリアの権威である中沢 透君がきた。
ちょうど大澤省三さんが生命誌研究館でミトコンドリアDNAによるオサムシの分子系統を始めたころである。
新川さんは中澤君の弟子の牧田裕道君と大澤さんにテクニックを教わって、ギフチョウの起源についてミトコンドリアDNAで一つの答えを出すことになる。
私は基生研の所長としてもっぱら研究所の運営に努力していたが、植物の分子系統のパイオニアである長谷部光泰君が岡崎に赴任してきた機会をとらえ、大澤さ
んや尾本さん、八木孝司さんたちとも語らって、当時まだまだ高価だった研究所のシーケンサーも動員し、チヨウの分子系統の全国的な共同研究を立ち上げるこ
とにした。
さてこれからが本題である。このプロジェクトには全国の「チョウ屋」さんたちが協力してくれた。もう十数年前のことになるので今よりはまだましだった
が、すでに多くのチョウが国の天然記念物であったり、絶滅危惧種であったりするので日本産のものを集めるのも一苦労であった。特に一時はそれが最後の標本
になるかも知れないと思われたオガサワラシジミの採集については感謝しきれない。これで多くの「チョウ屋」の方々とコネを持っことができた。研究所の事務
方も文化庁や環境省の採集許可をとるのに大いに協力してくれ、心から感謝している。
岡崎を定年で退いて間もなく、三枝豊平さんの示唆で矢後勝也さんたちとゴマシジミの分子系統をやることになった。それまではむずかしい採集は「チョウ
屋」の皆さんにお任せしてきたのであるが、ここで初めて自らあちこち採集に赴くことになった。その最初は竜飛岬をはじめとする津軽半島であった。ここでゴ
マシジミを採集し続けている北海道の山本直樹さんと出会い、プロとはこんなものかとその見事な採集ぶりにほとほと感心した。チョウの採集に関しては、ご一
緒してみて、矢後さんや山形の永幡嘉之さんたちの力量にも大いに感じ入った。
ゴマシジミは北海道や青森を除き今や点々としてしか生存せず、試料を集めるのも大変であった。この十年の間にも採れなくなった場所がある。折角岡崎にい
たのに愛知県、静岡県ではこのプロジェクトが始まる前に絶滅してしまったのが何とも口惜しい。乾燥標本からではまともなDNAが抽出できないからである。
それでもどうやら大陸の試料も含めた分析結果が近いうちに論文になると期待されるようになった。
これとは別に、近年は私が私的にまだ出会っていないチョウを求めてあちらこちらに出向いている。これらのチョウのほとんどが我が国の絶滅危惧種や地域限
定種である。ここにおいて発揮される「チョウ屋」の皆さんの実力のほどにはまことに感嘆を禁じ得ない。ピンポイントで場所や時期を教えていただくのである
が、多くの場合成功している。驚くのはその場所には必ずと言ってよいほど別の「チョウ屋」さんがいることである。つい先日も新潟県のクモマツマキチョウを
求めて糸魚川近くのポイントに行ったが、伊藤建夫さんに遭遇しただけでなく、そこに二、三日通っているという東京や名古屋の人、じっとある場所で待ち構え
ている若者などがいた。
矢後さんの誘いで蝶類学会に顔を出してみても、分類や生態、その他チョウのもろもろに関する「チョウ屋」さんたちの知識、見識には、今更ながらつけ刃で
は太刀打ちできないとつくづく思い知らされている今日この頃である。吉川 寛、平賀壮太、伊藤建夫という元(?)「チョウ屋」のすぐれた分子生物学者たち
がいるのも、子供の頃から観察結果をいろいろと分析・考察するくせがついていたためであろう。それでも「蝶類DNA研究会ニュースレター」では、少しは
「チョウ屋」さんたちに貢献できたのではないかとひそかに思っている。
|
毛利 秀雄
東京大学および基礎生物学研究所 名誉教授
|
2013.05.20
No.12 虫屋になれなかった私と昆虫DNA研究会
大場 裕一
「虫屋」は、私にとっていつも憧れとコンプレック
スの入り交
じったフクザツな感情を惹起する魔法の言葉であった。子供の頃は昆虫が大好きでいつも昆虫図鑑を抱えて歩き「将来は昆虫学者になるんだ」と言ってまわって
いた。しかし、中学生の頃に母親に言われたひとこと――
「いまの昆虫学者は殺虫剤を作る研究しかしてないからやめときなさい」
この一言で、私は昆虫好きも昆虫学者の夢も放棄してしまったのである(ちなみに、ずっと後になってからその話を母にしたところ「あらそんなこと言ったか
しら」とまったく覚えていないようだった)。
「虫屋」に復帰するチャンスがその後に一度だけあった。北大に入学した私は、子供の頃の夢を思い出して虫研(昆虫研究会)の戸を叩いたのである。しか
し、いざ入部するや、さっそく薄暗い喫茶店に連れて行かれて男4人でコーヒーをすするだけの地味な毎日(当時、部員は私を含めて4人しかいなかった)。
「これでは、私の青春は終わるな」
そう思った私は早々に退部し、以降は虫とは無縁の大学生生活を送ることとなった。しかし、虫たちと縁を切ったからといって、とくに楽しい青春時代が訪れ
たわけでもなく、私はただ「虫屋」という言葉に対していよいよ深い憧れとコンプレックスを募らせたのであった。
修士課程まで私は有機化学を学んだ。その後、生物学に転向し岡崎の基礎生物学研究所に進学したが、博士課程で選んだテーマは魚類の生殖生物学だった。も
ちろん、昆虫とは全く関係がない。だから、毛利秀雄先生や岡田節人先生や大平仁夫先生というスゴい虫屋がすぐ近くにいたことにはまったく気がつかなかっ
た。ここでもまた「虫屋」になるチャンスを逃していたのである。
その後、名古屋大学に移ってから、生物発光の研究をやることになった。発光生物なら何でもよかったのだが、あえてホタルをライフワークのひとつに選んだ
のは、たぶん虫屋に対する長年の憧れとコンプレックスのせいであろう。
コメツキムシにも光る種類がいるということで、なんの紹介もなく大平仁夫先生に手紙を書いてみた。すると、コメツキムシについて全く知識のなかった私を
大変親切にご指導下さった上に、大澤省三先生を紹介して下さり、ちょうど発足したばかりの昆虫DNA研究会への参加も勧めていただいた。さっそく参加して
みたら、
「あれー?」
生殖生物学の方ではよく存じ上げていた毛利先生や堀寛先生が座っていたのでビックリした。おふたりとも隠れ虫屋だったのだ(隠れていたわけではないと思う
が)。
昆虫DNA研究会は、私のような虫屋コンプレックスを抱えた単なるムシ好きを暖かく仲間に入れてくれた。それが嬉しくて毎回参加しているうちに、この研
究会こそ我がホームグラウンドであり最も居心地の良い場所であるように思えてきた。そんな訳で、2010年より本会の事務局を引き受けさせて頂くことに
なった。ほんとうの「虫屋」になれなかったかわりに、せめて「虫屋」の皆さんのお手伝いができることが今はとても嬉しい。
本研究会には、虫好きをそのまま生業とした昆虫学者、昆虫が大好きだけれどそれを職業としなかった科学者、昆虫を趣味としているアマチュア愛好家、そし
て私のように虫屋にはなれなかったが昆虫を研究している科学者など、いろいろなタイプの会員が所属している。しかし、全員の思いはひとつ「昆虫が好き」な
のである。そしてお互い同士をうまくつなぎ合わせているのが「DNA」のキーワードではないかと思う(このキーワードがなければ、私の出る幕はなかっ
た)。私のお気に入りの素晴らしいこの会、せめて私が事務局を続けている限りは存続させたいものである。
|
大場 裕一
名古屋大学大学院生命農学研究科 分子機能モデリング研究分野 助教
|
2013.04.22
No.11
コラム 中峰 空
現
在、私は兵庫県三田市の三田市有馬富士自然学習センターに学習指導員(三田市嘱託職員;昆虫担当)として勤務している。展示物作成、自然学習に関わる来館
者サービス、教育普及活動などが主な業務である。当センターの主な来館者層は小学生以下の子ども達であるため、できるだけ分かりやすく生物の“面白さ”を
伝えるために頭をひねる日々を送っている(ちなみに自己紹介写真に写っているのは過去の展示に用いたテイオウゼミの標本
で、翅の開帳はおたふくソースの容
器と同じくらいの大きさであることに注目)。
生きもの好きの子どもがそのまま大人になったような私は、奈良県吉野郡東吉野村という紀伊半島の山村で生まれ育った。2013年
現在、人口およそ2000人の過疎の村だ。私の実家近くに中央構造線が走っており、これより南の吉
野地域は谷が深く地形が急峻で、山の斜面に小さな集落が点々と分布している。21世紀に入り十数年
が経過したが、私の実家ではいまだに薪で風呂を焚いている。また、夏には日中は網戸をせず窓を開けっ放しにするので、家の中の隙間という隙間、例えばタン
スの引き手や物入れの引き戸、神棚などは狩り蜂の仲間、特にハエトリグモを狩るモンキジガバチに占領され泥の巣が多数作られるようになる。他にも川が小学
校指定水泳場になっていることや、鮎釣りの最中に目の前をカワネズミが泳いでいったので追いかけてタモ網ですくったこと、簡易水道の取水口にオオサンショ
ウオが詰まっていたこと、祖父がスリッパを履こうとしたら中にモモンガが入っていたこと…等々山村ならではの話には枚挙にいとまがない。
そんな環境で育った私はどういうわけか、幼い頃から虫や生き物に興味があり、通園・通学の道中で何かを捕まえては玄関や庭先のプラスチックケースに入れ
て
飼
育していた。幼稚園の頃には早くも「むしはかせ」と呼ばれ、人生で一度目の“博士号(むし)”を取得した。
吉野と言えばスギの植林ばかりで、植生はあまり面白く無いのだが、集落の周辺には小規模なクヌギ林が残っている。私の実家の隣にもクヌギ林があり、小さ
い頃
はよく“ゲンジ(クワガタのこと)”を採りに行っていた。近畿地方で広く見受けられる地方名だと思われるが、吉野ではクワガタの総称をゲンジ、コクワガタ
はヘイケ、ノコギリクワガタはスイギュウ、ミヤマクワガタはマクラと呼称していた。
小学校1年生の夏、私は一人でいつものクヌギ林にゲンジを採りに行っていた。一人っ子で同年代の子ど
もの数が少なかったこともあり、いつもの遊び相手は虫だった。そしていつもやるように、目星を付けたクヌギを蹴って回っていたら右手に激痛が走った。スズ
メバチに刺されたのだ。私はあまりの恐怖と痛みで泣きわめきながら家に帰った。当時はキンカンで対処するくらいしかなく、私の小さな右手はパンパンに腫れ
上がった。しばらくは指が曲がらず箸を持てなかったのでスプーンでご飯を食べていたのを憶えている。この後ずっと、高校生くらいまでハチに対する恐怖心は
なかなか抜けることはなかった。
小学校3年生くらいだったと思う、家の庭先で自転車に乗る練習をしていた。先に述べたように平地が無
く急な坂ばかりなので、自転車の練習も庭先くらいしかできる場所が無かった。何度もこけながら、練習を繰り返していると、前から大きなハチがこっちに向
かって飛んで来た。私は「アカン!刺される!逃げな!」と焦って自転車の向きを変えて必死で逃げようとしたら…なんと、自転車をこいでいるではないか。あ
の時、ハチに追いかけられなかったら、いまだに私は自転車に乗れていないかもしれない(そんなことはないと思うけど)。
前
回のリレーコラムを執筆された斉藤明子さんはじめ、私の知り合いの昆虫学者、生物学者は都会生まれの方が多い。そして、今でもお風呂を薪で焚いているとい
う方とは出会った事がない。育った環境と昆虫や生物に対する興味に相関があるのかどうか、私には分からない。そもそも人口比が大きく偏っているのだから、
一定の割合で“生きもの好き”が発生するのであれば、都会育ちの昆虫学者や生物学者が多いのは当たり前だ。
前回のコラムで触れられていた斉藤明子さんの疑問と同様、昆虫や生き物の面白くて興味深いことを述べるのは容易いのだが、では何故好きなのか、という
問
いにはいくら考えても答えることができない。これは本当に謎である。これが分かれば私自身についてもっと理解できるのかもしれない。そしてもっと昆虫や生
物
の面白さを子どもたちに伝えることができるかもしれない
|
中峰 空
三田市有馬富士自然学習センター 学習指導員
|
2013.03.20
No.10
博物館学芸員としておもうこと 斉 藤 明 子
昆虫DNA研究会からこのコラムに執筆依頼をいただいて、まとまったDNAの研究成果を書くのは難しいので、お引き受けするかどうか迷いましたが、コラム
ということなのでDNAから外れた事でもお許しいただけるかと思い、私自身のことを書かせていただくことにいたしました。子供の頃からどのように虫に関
わってきたか、ということと、今博物館の学芸員として働く中で日頃感じていることをお伝えしてみたいと思います。DNAの話題から離れてしまいますが、ど
うかお許し下さい。
博物館で昆虫担当の女性学芸員として働いているとなぜ昆虫が好きなのですか?と聞かれることがよくあります。たいていそれは謎です、とお答えしていま
す。両親も兄も特に生きものに興味があった訳でもなく、育ったのは東京の品川という、特に周りに虫がたくさん居る環境でもありませんでした。それでもなぜ
か物心ついた時から庭でセミ採りをしたり、サンショにアゲハチョウの幼虫を見つけると成長を楽しみに見守ったりしていました。飛んでいるオオスカシバをハ
チだと信じて、家のガラス戸の隙間から網を出して刺されないように採ろうとしたり、カに血を吸わせて水を張ったコップに入れておくと水面に卵を産む、と書
いてある本を見て、自分の太ももで血を吸わせたものの吸い逃げされてしまったことなどが、小学生の時の特に印象に残っている思い出です。その後、今に至る
まで虫を続けてこられたのは、たぶん家族の協力と放任があったからだと思います。私のために竹の棒で捕虫網の繋ぎ竿を作ってくれた祖父、モンシロチョウの
羽化の瞬間を一緒に見てくれた母と祖母、両親と旅行に出かけている間、飼っていたアリジゴクにエサ(アリ)をやってくれた祖母、という協力者がいました。
さらに、ザリガニ、ヤモリ、ヘビの抜け殻などまで、虫以外にも様々な物を家の中に持ち込んで死なせていったにもかかわらず、だれも私を叱ることのなかった
家族の“放任”のお陰で今があると、大人になってから気づきました。
私立の女子中学校に入学した後も一人で虫を続けていました。中学一年の夏休みの時、旅行社が企画した昆虫採集の旅に親子で参加し、初めて蝶の展翅という
ものを習ったのをきっかけに、蝶の採集にはまりました。「新しい昆虫採集」をバイブルとして美ヶ原や三城牧場などへ行き、採ったことの無いチョウを採って
展翅することに夢中になりました。オオムラサキを初めてネットインした時の手の震える感動を今でも良く覚えています。受験の時期になると、特に将来を深く
考えることもせず、とにかく昆虫学研究室のある大学に行きたいと思い、その後ますます虫にのめり込みました。30歳で幸運にも博物館に職を得て、現在まで
ずっと虫と関わることになりました。
博物館では子供の自由研究の相談をしばしば受けます。お父さんは仕事が忙しいのでしょうか、やってくるのは母親と子供のことが多いです。たいてい子供は
ほとんど口を開かず母親ばかりがしゃべります。そして子供に立派な自由研究をさせたいがどうすればよいか、という場合が多いです。その相談内容は、たとえ
ば、毎朝学校へ行く前に家の周りで蝶のセンサスを子供にさせたが、早起きが続かず一週間で挫折した、どうすればよいか、とか、コンテナに水を張ったビオ
トープを作ってどんな生きものが来るか観察していたが、何事も起こらないのでメダカを買ってきて放したけれどやっぱり他に何も起こらない、自然観察に何か
コツはあるのでしょうか、などなどです。夏休みが残りあと1週間という時期にやって来て、宿題の自由研究に何をやれば良いだろうか、という相談もありま
す。いちばんひどい出来事は、ある夏休み子ども相談会での事です。母親が子供の宿題と称して撮影した虫の名前を教えて欲しいと、コンパクトデジカメの液晶
画面で写真の虫を何十枚も同定させられていた時の事です。一緒に来ていた子供はすぐに飽きてしまい、うしろでサンダル蹴りを始め、何度目かに蹴り上げたサ
ンダルが隣で同定対応中だった別の人の標本箱の中に見事に落ちたのです。もちろん標本は壊れ、笑い事ではすまされない状況となりました。母親が写真の虫に
名前を付けることに夢中ですっかり子供そっちのけとなった結末です。こんな時は何のために仕事をしているのかわからなくなります。これらは極端な例です
が、博物館へ昆虫の相談に来られたお母さんには、もう少し楽しいことをやりましょう、と言って、ほとんど口を開く間の無かった子供に何が好きなの?と聞く
と、クワガタが好き、アリが面白そう、などと結構答えが返ってくるものです。
私の家族は前述のように私を“放任”していたので、立派な研究をやらせたいから博物館へ連れて行く、というようなこともありませんでしたが、それでも旅
行社の昆虫採集の企画に参加させてくれましたし、その後の家族旅行はいつも私の計画した採集旅行となりました。つまり私は、両親の“放任”の結果、面白い
と感じた虫についてもっと知りたくなり、普通の女の子が行きそうも無い昆虫学教室のある大学への入学も反対されずに今があるわけです。親は子供が興味を
持ったことを尊重して手助けをしてあげるのが良いと思っています。そうすれば中には昆虫に興味を持ち続け、さらにDNAを切り口に謎を解明したいと考える
若者が育ってくれるのではないか、そのきっかけとなればと毎年観察会や昆虫標本のつくり方教室などを続けています。自分で実際に子育てをしたことがないの
であまり説得力はなく、子育てはそんなにうまくいかない、とお叱りを受けるかも知れませんが、これからもしばらくは学芸員としてきっかけ作りを続けていこ
うと思っています。
|
斎藤 明子
千葉県立中央博物館 学芸員
|
2013.02.03
No.9
スペインの自然保護の一端を垣間見て 伊 藤 建 夫
写真は、イベリア半島(スペイン)の北部大西洋岸に沿って東西約300kmに渡りのびるカンタブリア山脈中のPicos de
Europa国立公園の東端の境界の峠にあるハイイログマの彫刻(とそのそばに立つ私)です。この彫刻はハイイログマの保護‧回復事業に取り組むカンタブ
リア県(ここは1州1県)により設置されたものであるとのことです。
私は、昨年(2012年)9月にスペインで開催された「プラスミド生物学国際会議」に参加し、研究成果の報告をしました。その折にピレネー山脈付近とカ
ンタブリア山脈付近を旅行し、チョウの採集と観察をする機会に恵まれました(山行きについては、かつて信州大学大学院でツキノワグマの生態研究をして博士
の学位を取り、現在エコツアー業を手掛けているパリ郊外在住のオランダ人に案内してもらいました)。上記のハイイログマの彫刻はその途中で遭遇したもので
す。今回の旅行は、ヨーロッパのハイイログマに関する調査などの目的で行ったのでは全くありませんでしたが、この機会に案内してくれたオランダ人の話やイ
ンターネットで調べたスペインのハイイログマの保護‧回復事業について紹介したいと思います。
ヨーロッパ西部のハイイログマは絶滅の危機に直面しており、フランスとスペインの国境に横たわるピレネー山脈では、1900年代初頭に最後の野生個体が
射殺され絶滅したとみなされました。その後、ヨーロッパの他地域からの雌雄個体が何度か移入されました。しかし、この地域固有の亜種とみなされる個体も生
き残っていたようですが、最後の個体が数年前に誤って射殺されてしまったとのことです(裁判沙汰になりましたが、射殺した人の「身を守るため」との言い分
が認められた)。また、この地域は羊や牛の牧畜が盛んで、夏期は放牧が行われているため、少なからぬ被害も出ており、ことは簡単ではないようです。
また、スペインのカンタブリア山脈のハイイログマについては、カンタブリア県に生息する哺乳動物の内では唯一ハイイログマが1989年以来絶滅危惧種
(endangered species)に指定され、保護‧回復事業が実施されています。
スペインのハイイログマの保護は、1973年にハイイログマを含む何種類かの「野生動物の保護」を目的とする法律が制定され、この法に基づき種々の規則
が作られたことから始まりました。その後、1989年には「自然地域と動植物相の保全」を目的とする法律が制定され、絶滅危惧種については回復のための計
画を策定することが求められました。そこで、この法律に基づいてまずハイイログマを含む全国版絶滅危惧種カタログが編纂されました。最近では、2007年
に「自然遺産と生物多様性」に関する法律により、特別な保護を必要とする野生生物種のリストと全国版絶滅危惧種カタログが編纂され、2008年制定の法律
により地域毎の絶滅危惧種カタログ編纂が求められ、カンタブリア県でもハイイログマを含む絶滅危惧種カタログが編纂されました。
カンタブリア県では、1989年の法律に基づいて直ちに「ハイイログマ回復計画」が策定されました。この計画では、カンタブリア山脈全体のハイイログマ
集団の遺伝的多様性と種としての生存率を高めるのに必要な東西の集団間の交流を促進することとなりました。そのため、まず東部のコアになる集団の保護、増
殖を図ることを目的とする事業が始まり現在に至っています(西部は別の州、県に属しています)。1989年の法律では、年度毎に事業報告と必要な計画変更
を牧畜•農業•漁業大臣(現、牧畜•漁業•地域開発大臣)に提出し承認を得ることになっています。
2011年度の報告書(65頁、カラー)には、当該年度の種々のモニタリングのデータとともにこれまでに集積されたデータベースに基づくまとめの図表
(地域別の目撃数、仔連れの雌グマの目撃数、家畜の被害頭数の推移などなど)や写真(調査、捕獲‧放獣の様子など)が多数掲載されています。最高30万
ユーロ(!)の罰金と定められているにもかかわらず密猟があり、またこの地域でも家畜や農産物に対する被害は少なくなく、被害に対する補償も大きな問題と
なっています。別の資料によれば、カンタブリア山脈全体のハイイログマの個体数は多くて140頭程度、カンタブリア県を中心とする東部個体群は30頭〜
40頭にすぎないとのことです。
ご承知のように、スペインは現在きわめて深刻な経済危機に陥っています。報告書ではこのことに言及して、人的、物的資源の効率的な運用(重複の回避な
ど)の必要性と迅速な被害補償のために保険制度を利用することなどが提言されています。それにしても経済危機の深刻なスペインの一地方公共団体でこれだけ
の保護‧回復事業が継続、実施されていることには驚かされました。カンタブリア県はサンタデール市という大西洋岸のリゾート地(王族、貴族の別荘地が大西
洋を望む丘に立ち並び、イギリスとの間に大型船による定期フェリー航路がある)がある小さな地域であり、比較的経済状況が「まし」であるという背景もある
かも知れません。さらに、中世以後に一度は森林を徹底的とも言えるほどまでに破壊したヨーロッパ(特に、西ヨーロッパ)では、(罪滅ぼし的に)環境保全、
自然保護が国、地方公共団体レベルでも活発に行われているという背景もありそうです。
日本の北海道のヒグマや東北から中部にかけてのツキノワグマについては、少なくとも当面は絶滅の危機にはなく、自然の食物連鎖の頂点に立つクマと人との
共存のために保護・管理が細々ながら行政と民間団体などの協力のもとに進められつつあります。しかし、九州ではツキノワグマの確かな目撃例が絶えて久し
く、四国でも絶滅の危機にあります。これらの地域では保護‧回復計画の策定を目指して早急に継続的な個体数調査と保護活動を実施する必要があると思われま
す。
ところで、チョウの採集に関しては、フランスでは国立公園、自然保護公園などの外では規制がありませんが、スペインでは法律によりいかなる種のチョウも
誰であっても(スペイン人であっても)採集することが何故か禁止されています。スペイン人の友人(生物学の研究者)は、当初「No one
cares.」と言って、無視したらどうかとの意見でした。しかし、無用のトラブルを避けるために、彼に手伝ってもらって今回の旅行で立ち寄る予定の複数
の県に個別にチョウの採集許可申請を前もって行いました。担当者の好意的な対応もあって、首尾よく3県から許可を得ることが出来ました。ピレネーやカンタ
ブリアで出会った旅行者、ハイカー、羊飼い、林道管理者の人たちも概して好意的で、何人かの人たちは私のユーラシアの(高山)チョウの分子系統地理の研究
の説明に興味を示してくれました。多くの人たちが無関心であったのも事実でしたが……..。欧米ではフィールドでチョウを調査‧採集していて同業者に出会
うことはまずありませんが、今回もそうでした。時期的な関係からスペインの山で子供たちに出会うこともなかったのは少し残念に思いました。「チョウを捕る
のは悪いことだ」というような教育が行われていなければよいと思います。
|
伊藤 建夫
信州大学
理学部生物科学科
生体生物学
特任教授
|
2012.07.02
No.8
昆虫の魅力を伝える地道な努力が必要である。 蘇 智 慧
生物の多様化の尺度の一つは種数である。これまでに記載されている動物の種数を見ると、昆虫はおよそ7割を占めている。だから、昆虫は地球上もっとも多様
化した動物群であり、地球は昆虫の惑星とも言われている。同じ種の昆虫でも、地域によって形が違ったり、色彩が異なったりして異を見せることもよくある。
このような多種多様さを求めて昆虫採集に夢中になる昆虫少年が現れる。しかし、昆虫少年の減少は確かに進んでいる。大澤先生、八木さんと柏原さんのコラム
でもそれを嘆いており、その原因と改善策も述べられている。昆虫を研究対象としている人間にとっては寂しい限りである。しかし、それは時代の流れでもあ
り、そう簡単にその流れを変えることは難しいと思う。でも、昆虫少年が減少していても、昆虫の魅力は減っているわけではない。陸上のあらゆる生息環境に適
応し、様々な形態と機能の多様化を遂げているのは昆虫であり、生物の進化・多様化に関しては昆虫抜きでは語ることはできない。地道に昆虫の魅力を世の中に
伝え、子どもや若者を昆虫学の研究に引きつけることが大事であると思う。
私自身が最初に感じた昆虫の魅力は変態と休眠である。芋虫と毛虫が美しい蝶々になるのは何とも神秘的であり、体の代謝を最小限に抑え、食べず飲まずに悪
環境を乗り越すことは如何にも賢い生き方と映る。私が大学で昆虫休眠機構の研究に携わっていたのも兼ねてそう言う昆虫の魅力を感じていたからであろう。オ
サムシの研究を始めると、昆虫の形態の多様性に強く惹かれるようになり、昆虫採集を始めた。子どもの頃、虫取りをしたことはあるものの、いわゆる昆虫少年
には遠く及ばず、オサムシはもちろん知らなかった。大学での研究はもっぱら組織、細胞、DNAといったミクロの研究で、生物を生きた個体としてじっくり眺
めたこともなかった。しかし、オサムシの研究は、実験作業そのものはミクロの世界ではあるものの、結果と考察は個体、集団、種、或いはそれ以上の分類群が
対象となり、生きもの全体を見るようになり、生物進化の研究に足を踏み入れた。オサムシの研究を始めた当時の私は、系統樹の見方さえ知らずに試行錯誤を重
ねながら、オサムシの系統進化の研究を大澤省三先生のもとで進めていたが、系統樹の枝分かれを見ながら、確かに形態が似ているものは系統樹上に近い関係に
あり、逆は遠くなることが分かり、DNA配列の情報に生物の進化の歴史が刻まれていることを始めて実感した時は本当に感動した。しかし、全部はそうとは限
らず、明らかに形が似ているのに、系統樹上では遠い関係になり、逆に明白に異なる形をしているのに、系統樹上では姉妹関係になる、そういう不思議な系統樹
を得る場合も多々ある。何故だろう。種内の系統樹を描くと、地域的に近いものが系統樹上でまとまることは一般的である。地域的系統が何故生じたのか、また
その地域系統間の境界がどこにあるのか、そういう問いも出てくる。要するに、系統樹を作れば作るほど疑問も多く現れる。こういった疑問を解かすには更なる
解析が必要であり、当然材料の追加収集も必要となる。このように私の昆虫採集は分子系統の研究から始まったのである。採集は苦労も伴うが、苦労した過程を
経て必要なものが得られたときの満足感は何より楽しいものである。オサムシの研究を始めて以来、毎年フィールドに出かけて、そのような採集の楽しさを味
わっている。昆虫採集を重ねることによって、新たな興味深い現象が見つかり、研究の更なる発展へとつながる。ここで言いたいのは、昆虫採集を通して昆虫の
魅力を徐々に感じ取ることもあれば、何かのきっかけで昆虫の魅力を知ってから昆虫採集を始め、昆虫研究へと発展することもあるとのことである。子供たちが
自然に虫に接する機会が益々少なくなる、今の時代では昆虫学研究者の地道な努力が益々重要になってくる。
JT生命誌研究館(BRH)では、毎年の夏休み中にサマースクールというイベントを行っている。私の研究室では、身近な昆虫を材料にして、2日間をかけ
てDNA抽出、PCRによる目的遺伝子の増幅、塩基配列決定、系統樹作成と結果発表という一連の作業を参加者に体験してもらっている。「見た目に近いもの
が系統樹上にも近い」、逆に「見た目に騙されてはいけない」という趣旨のもとで、昆虫種の選定を行い、DNAに生きもの進化の歴史が刻まれていることを理
解すると同時に、昆虫が如何に不思議で、魅力のある生きものであることを少しでも感じ取ってもらうのが目的である。参加者には意外にも中学生が多く、中に
は昆虫少年もたまに現れる。サマースクールを参加したあと、昆虫に興味をもち、昆虫採集を始めた子どももいる。将来、参加者の中から昆虫学研究者が現れて
くれればそれより嬉しいことはない。
BRHではもう一つイベントを年3回行っている。それは実験室見学ツアーである。中にはツルグレン装置を使って土壌動物を観察するプログラムがあり、子
供たちには常に人気を得ている。里山の落葉下の土を採ってきて電球を使い上から熱をかけて土中の小さい動物を落として顕微鏡で観察する。世の中での一般的
常識(?)では嫌われがちのムカデ類やヤスデ類などに対しても、子供たちは喜んで真剣に見ている様子を見ると、潜在的な昆虫少年(少女)は昔も今も変わら
ず存在していると感じる。虫に接する機会さえあれば、こういった潜在的な昆虫少年(少女)はきっと本物の昆虫少年(少女)になっていくと信じている。そう
いった機会が世の中に増えれば、やあ、我々がその機会を増やす努力をしなければならないのだろう。そうすれば昆虫少年の時代がまた戻ってくるのも夢ではな
いかもしれません。そう願いたい。
|
蘇 智慧
JT生命誌研究館
系統進化研究室 主任研究員
|
2012.04.09
No.7
非モデル昆虫研究の新時代到来 新 美 輝 幸
東城さんからリレーコラムのバトンが渡された。東城さんとの最初の出会いは、2002年葉山の生産性国際交流センターで行われた昆虫ワークショップのと
きだったと思う。印象的だったのは、東城さんが用いた研究材料の斬新さにあり、それまで見たことのない特徴を備えたカゲロウの一種は、翅の起源に迫るため
の格好の材料であった。その後も様々な機会でお聞きする東城さんの研究グループが用いる研究材料のユニークさには、驚きが絶えない。採集や飼育は困難なの
かもしれないが、誰も扱ったことのない昆虫を研究できることは素晴らしいと思う。膨大な種数を誇る昆虫を扱う研究の醍醐味は、正に多様性にあると思う。ど
の昆虫に着目するのかが研究上重要な鍵となる。例えば、系統上重要な位置にある昆虫やモデル昆虫では明らかにすることのできない興味深い現象を持つ昆虫な
どである。これまでは、たとえ興味深い現象が存在する昆虫であっても、DNAの言葉で理解することは困難な場合があったが、この状況は急速にかわりつつあ
る。
1987
年に発表されたPCR法の普及により、どの生物からも容易に遺伝子が相同性クローニングできるようになって久しい。問題は、目的とする現象を解く鍵を握る
遺伝子をどうやって見つけるかにある。昆虫のゲノム中に存在する遺伝子数は、1万数千個程度である。この有限な遺伝子の中から、目的の遺伝子を見つけるた
めのアプローチは様々であるが、どの方法を用いて見つけ出すかは研究者の腕の見せ所である。最近では、コンピューター上でのクローニングも可能になった。
全ゲノム情報の解読を行うプロジェクトも進行しているからだ。2000年のキイロショウジョウバエのゲノム解読を皮切りに、様々な昆虫種でゲノム解読の報
告が続々と発表されるようになってきた。この状況をさらに加速させるテクノロジーが登場した。次世代シーケンサーである。1000ドルでヒトの個人ゲノム
を解読する時代が迫りつつあるなか、次世代シーケンサーの普及に伴い、怒涛のごとく各種昆虫のゲノム解析が進行している。配列のホモロジーに基づくクロー
ニングの苦労を考えると、たった1000ドルで昆虫のゲノムの概要が解読できるとは嬉しい限りである。特筆すべきは、i5k (5,000
Insect Genome
Project)とよばれる5,000種の昆虫のゲノムをたった5年間で解読するプロジェクトである。現時点ではどこまで現実味があるかは不明であるが、
新しい原理に基づく次々世代シーケンサーの開発が進んでいる現状を鑑みると、このプロジェクトが実現するのは遠い将来ではなさそうだ。
現在、モデル昆虫の代表はいうまでもなくキイロショウジョウバエである。モーガンによる1910年の白眼変異体の発見以来100年以上の歴史を持つショウ
ジョウバエを扱う研究は、昆虫のモデルというより生命の基本原理を解き明かすためのモデルとして発展してきた。モデル生物の中のモデルとして不動の座を保
ち続ける理由は多々あるが、遺伝子の機能解析システムの豊富さは圧巻だ。p因子による遺伝子組換え体の作出は1982年に報告されて以来、様々な改良や新
技術が導入され現在に至っている。一方、非モデル昆虫の遺伝子組み換え体の作出はpiggyBacベクターの開発により大きく進展した。
1998年のチチュウカイミバエでの成功に続き、そのあと双翅目、鱗翅目、鞘翅目、膜翅目、直翅目の各種昆虫において遺伝子組換え体の作出が報告され、非
モデル昆虫においても遺伝子機能解析技術が徐々に進展している。
遺伝子の機能解析における革命は、1998年線虫で発見されたRNA干渉(RNAi)によってもたらされたといっても過言ではない。遺伝子組換え体の作出
が困難な昆虫であっても、RNAi法により容易に遺伝子の機能阻害が可能になった。この方法は、完全変態昆虫や不完全変態昆虫だけでなく無変態昆虫のシミ
においても有効性が示され、瞬く間に普及した。しかしながら、RNAi法が万能ではないのは残念である。二本鎖RNAを体腔に注射したも各種組織の細胞内
に取り込まれないためRNAiが効かない場合が昆虫種によって存在する。RNAiは本来真核生物の生存に必須の生体防御機構であるため、どんな昆虫でも細
胞内に二本鎖RNAが入ってしまえばRNAiは生じる。現に、細胞膜が形成される以前の多核性胞胚期の初期胚に二本鎖RNAを注射すれば、RNAiによる
遺伝子機能阻害がどんな昆虫でも生じると考えられる。今のところ、昆虫種に依存した二本鎖RNAの細胞内への取り込みの差異が生じるメカニズムは不明であ
る。この原因が解明されれば、近い将来どの昆虫でも遺伝子の機能阻害が用意になる時代がくるかもしれない。
ごく最近の注目すべきテクノロジーはTALEN(Transcription Activator−Like Effector Nuclease)
と呼ばれる人工ヌクレアーゼによる配列特異的な遺伝子ターゲティング法である。この成功例は、フタホシコオロギとカイコで2012年の学会で報告された。
今後、この方法により非モデル昆虫の遺伝子機能解析が大いに進展することが期待される。
新しいテクノロジーの開発により方法論的な障壁が打ち砕かれ、ブレークスルーと
なる研究への発展が導かれてきた。モデル昆虫と非モデル昆虫をわける技術的な垣根はますます低くなっているように感ずる。今後の昆虫DNA研究の発展が楽
しみである。
|
新美 輝幸
名古屋大学大学院生命農学研究科 資源生物科学科
助教
|
2011.11.22
No.6
比較発生学から分子系統地理の世界へ 東 城 幸 治
「東日本大震災」の話題(永幡さん)から「遺伝子時代の標本管理術」
(倉西さん)へ、そして私へとコラムがリレーされてきた。私自身、津波被害により地域個体群絶滅の可能性が高いとされる、とある湧水棲昆虫の遺伝子解析に
関わることとなった。
こ
の個体群は、福島第一原子力発電所付近のため、現状把握すら不可能なのであるが、震災前に標本が確保されていたために、このような遺伝子解析の機会が得ら
れたのである。近隣の個体群からは地理的にかなり隔離されており、福島県内ではただ一つの個体群であったこと、かつ、津波の影響を受けるほどに海岸に近い
など、かなり特異な個体群でもあったらしい。今回の震災と津波が我々の想定を超えるものであったとしても、千年・数千年に一度くらいのスパンで度々起こっ
てきたような自然現象であるには違いない。そうであるならば、過去にも、津波による撹乱に晒されながらも存続してきた個体群なのでは? という意見もでて
こよう。しかし今回の場合、人間活動の影響による個体群サイズの縮小を強いられた上に、大規模撹乱を受けているので、これまでのものとは意味が違ってくる
のだろう。
おそらく東北地方の太平洋沿岸には、同じような境遇にある昆虫種群が他にもある
ものと思われる。このような状況下において、「この場所に、この昆虫が活き
ていた証」として標本を後世に残すことや、遺伝子情報のように標本が包含する情報も併せて、きちんとアーカイブしていくことは重要であろう。微力ながら
も、このような形での貢献ができればと考えている。
昆虫類を含むあらゆる生物種群の遺伝子情報は、GenBankお
よび共同活動されているデータベースに集積されているため、これらに登録されたデータに関しては万人が利用可能となっている。私も、日本には生息していな
いような昆虫種群の配列データなどを重宝して利用させていただいている。手持ちのデータにGenBankか
ら取得したデータを加えて系統解析することが多いのだが、時々、不可解な結果が導きだされることがある。この一因には、登録された遺伝情報と、その遺伝情
報のもち主であったとして登録されている種名の対応が一致していないためのことも多いようである。尤も、目や科レベルといった高次系統解析に主眼をおいて
いる研究者にとっては、種レベルの同定精度が研究結果を左右することにはならないために、それほど強い関心にはならないであろうし、できる限り識別の容易
な種を対象とするような観点からのタクソン・サンプリングがなされてはいるだろう。
しかしながら、私が対象としている水生昆虫類では、先の倉西さんのコラムで紹介
された「ざざむし」の例のように、いわゆる「普通種」と称されているような
種においてさえも隠蔽種の存在が明らかとなったりしているのが現状である。甲虫類や蝶類と違って、マイナーな昆虫を対象としているが故の意見なのかもしれ
ないが、倉西さんが述べているような「遺伝子抽出に用いられた標本は、いつでも分類学的再検討が可能な状態で保存されるべきである」ことを痛感している。
現状でさえ収蔵スペース問題がつきまとう日本の博物館事情を考えると、現実的には難しいことなのかも知れないが、種分化を取り扱った研究や記載に関連した
研究において、遺伝子情報が用いられた場合などにおいては特に、著者の責務として遺伝子抽出に用いた標本類を然るべき機関に収め、標本の所在を論文内にも
明記して欲しいものである。そうすることが難しい場合でも、せめて、採集日時や産地情報が論文内に詳しく記されていれば再検討がなされる際には役に立つの
ではないだろうか。
ここまで、震災のことや遺伝子解析に供された標本の扱いに関する私見
を述べてきたが、後半では、少し自身の昆虫DNA研究について紹介させていただきたい。
私の昆虫研究のはじまりは、「比較発生学」と称される分野で、昆虫の体づくりを
通して、多様な昆虫形態の基本プランを明らかにしたい、というところにあっ
た。なかでも、翅をもつ最も原始的な昆虫類であるカゲロウ類に着目し、その胚発生をひたすら形態学的に、そして組織学的に追究してきた。学位取得までは
DNAとは無縁に過ごしてきたものの、発生遺伝学的研究が、ショウジョウバエをはじめ、カイコガやコクヌストモドキなどといったモデル昆虫類から、系統進
化の鍵を
握るキータクサへと徐々に拡がりはじめた頃でもあったため、有翅昆虫類の進化の鍵を握るカゲロウ類でも発生遺伝学的研究に関心をもちはじめるようになっ
た。しかし、この手の研究手法には全くの素人であったため、様々な方々との共同研究を通じて、カゲロウ類における発生遺伝学的な研究にも足を突っ込むこと
となった。
そのような中、7年半ほど前に、現在の信州大学理学部生物科学科に着任し
た。
一から研究室を立ち上げなければならない状況にあったが、遺伝子解析に関しては、かなりの部分を学科共通機器類を利用することでカバーできたため、サーマ
ルサイクラーや遠心機、冷蔵・冷凍庫やその他の小物類さえ揃えてしまえば直ぐに研究をスタートで
きる利点があった。加えて、豊かな自然が周囲八方に存在する信州の地の利は何よりもありがたく、これまでは全く経験のなかった分子系統地理学的な研究にも
新規着手することを即決した。さらに幸運だったのは、大学内に「山岳科学総合研究所」という組織が立ち上がり、この研究所の兼任にしていただけたことであ
る。日本アルプス地域を中心に、山岳科学に関係する様々な情報が集積し、フィールドでの調査・研究にも便宜を図っていただけるという、この上ない環境が期
せずして整ったのである。
第一に着手したのは、第四紀前半(約180
-100万年前)の槍穂高連峰の山岳形成(隆起)によって往来が困難になったと思われる原始的カゲロウ種群に関する研究であった。実際に遺伝子解析をして
みたとこ
ろ、見事に槍穂高連峰の東西(松本側と飛騨側)で遺伝的分化が生じていることが明らかとなった。そして、推定された両山麓の個体群間での分岐年代も地史と
よく合致するも
のであった。また、この山塊では、焼岳火山群の活発化に伴い、河川の塞止めと流路変更が頻繁に生じてきたともされるが、このような「河川争奪」現象に関し
ても、遺伝子解析の結果は興味深い関連性を示してくれた。
このような展開をきっかけに、山岳域における分散力の弱い昆虫種群に着目するこ
とは踏襲しながらも、解析対象とする昆虫群を拡げてきた。最近では、対象の
地域も拡げて、南西諸島も含めた日本列島広域、さらには朝鮮半島や大陸などにも足を運ぶようになってきた。このような研究をはじめた当初、現在の分布が似
通ったものであれば、同じような進化史を辿ってきたのだろうと考えていたのだが、実際に詳しく解析をしてみると、そう単純なことばかりではないことがよく
分かってきた。ひとえに「日本列島の昆虫の起源や昆虫相の成立プロセス」といっても、実に多様なパターンがあるものだと、驚き、楽しみ、そして不思議さを
常に感じながら過ごしている。
|
東城 幸治
信州大学理学部生物学科
助教
(兼任 信州大学山岳科学総合研究所)
|
2011.10.24
No.5
遺伝子時代の標本管理術 倉 西 良 一
『ざ
ざむし』とよばれる昆虫がいる。『ざざむし』は、ざぁざぁと流れる川の瀬に棲む水生昆虫(幼虫)の総称で、信州で『ざざむし』は有名な食材である。『ざざ
むしの佃煮』に使われ人々にもなじみの深いヒゲナガカワトビケラの遺伝子を各地で採集して調べてみると、これまでヒゲナガカワトビケラと同定されていたも
のの中に複数の種が混じっていたことが明らかとなった。今回見つかったヒゲナガカワトビケラの近縁種は、ヒゲナガカワトビケラがあまりに普通種な故に見逃
されていたのかもしれない。
遺伝子で識別された成虫や幼虫から、種の認識に必要な外部形態の情報が集まり、
日本の河川生態系を代表するヒゲナガカワトビケラの近縁種が新しいタクサと
して追加されようとしている。もし遺伝子を解析したのがどの個体か分からないような状態、すなわち標本の整理が充分にされていなかったならば、この研究は
完結できなかったにちがいない。遺伝子解析された個体が特定できて、それを形態解析で裏打して新しいタクサが認識できたのである。
遺伝子情報(塩基配列)は、分類群名(生物の学名)と結びつけられている。もし
遺伝子情報を分析した生物の同定に誤りがあり、分析した生物がどの個体か特
定できず検証不可能な場合、その情報を用いた結果の解釈に大きな影響が出るのは自明の理である。その意味で遺伝子解析証拠標本は、分類学における『タイプ
標本』すなわち種の定義に使われた標本に準ずる扱いを受けるべきである。
遺伝子解析された昆虫標本は、どのように保存管理されているであろうか?一般に
遺伝子解析に使われる標本は、アルコール液浸標本が多くさまざまな形状の瓶
に入っていることが多い。それゆえ(配架や整理)管理が大変煩雑である。標本の保存について研究の現場は大変苦労をしている。苦労の最大の原因は収納ス
ペースが充分確保されないことによるものだ。(乾燥標本は、高度に規格化された『ドイツ箱』とよばれる堅牢な木製の箱に収納され液浸標本に較べて管理がし
やすい)。ラベルに書き込む情報はもとより、ラベルの材質や記入に使うインクなどの選択も維持管理には重要な要素である。
遺伝子抽出に使った標本はい
つでも分類学的再検討が可能な状態で保存される必要がある。標本の維持管理は、決して無料でできるようなものではなく人件費も
含めた経費が必要である。昆虫の乾燥標本の場合、博物館が人から標本を預かり、標本箱に配列・データベースへの登録・公開にかかる経費が消耗品と人件費を
含めて1個体あたり約5ドルとしている文献があったが、液浸の遺伝子解析証拠標本の場合必要な経費は1個体あたり1500円を下らないであろう。これは私
が研究している水生昆虫の場合であり、すべての昆虫でこれだけかかると言うのではない。結構経費がかかるものであるが生物の採集や同定にかかった時間や労
力、遺伝子解析にかかっ
た経費、将来の検証可能性を担保するということも合わせれば納得のできない金額ではない。
最先端のことばかりに目がいっていると、思わ
ぬ所に落とし穴が潜んでいる。いくら苦労をして素晴しい研究をしても、いざ証拠標本がないと信用されないから
である。遺伝子解析証拠標本の問題は、自然誌文化が未成熟で博物館を来館者数でしか評価できないような現状があるから心配になるのである。標本を扱う理論
や技術は確かに古典的なものではあるが、最先端のおもしろい研究もこのような基礎の上に成り立っていることをこの機会に思い起こしていただければ幸いであ
る。
|
倉西 良一
千葉県立中央博物館
上席研究員
|
2011.9.22
No.4
東日本大震災から学ぶこと 永 幡 嘉 之
2011
年8月7日、太平洋沿岸を走り回る合間を縫って、山形県内の山で風穴を探し歩いていた。30度を超える暑い日で、エゾゼミの大合唱のスギ林をくぐりぬけ、
もう数十年も通る人がないままに失われた道を何度も迷いながら、ようやく擂鉢状の窪地をみつけて下ってみた。苔むした石の間から吹き出す冷気に、汗が急に
冷やされて心地よい。風穴には、崩れてはいるものの見事な石組みが残っていた。かつて、ここは近郷一円のカイコの卵の貯蔵庫だった。冷たい石の上に寝転び
ながら、スギの梢を流れる雲の行方を追っていた。
この夏は、古くからの養蚕を続ける
農家に頼みこんで、数日間隔で、仕事の様子を撮影させていただいていた。94歳と70歳の
二人の男手による炎天下のクワ刈り、蚕が葉を食べる音。山形県南部では、すでに養蚕農家はその1軒だけになっていた。その家こそが、かつて風穴に遊びに
行って石室の底を少し掘り下げ、氷
の塊を舐めて遊んだという話を聞かせていただいた。冷気の噴き出し口では一年中気温が安定し、カイコの羽化時期を調節できる。風穴の石室は、人間が気温を
管理できなかった時代の、生活の知恵の結晶でもあった。
冷蔵庫というものが登場してから、
風穴を訪(おとな)う人もなくなり、半世紀の間に石組は崩れかけて、クロヅルやヤマブドウ
の蔓に覆われていた。
3月11日の東日本
大震災のあと、自然史資料の被害はしばしば話題に上った。陸前高田の博物館の標本復旧に多くの人々が関わったことは様々な媒体で報じられたため、人々の記
憶に新しいだろう。
DNA研究の領域では、災害時の資料保管はどうだろうか。低温で保管せ
ねばならないものが大部分だ。大規模停電という問題が生じると、冷蔵施設が機能しなくなる。膨大な冷凍資料を、全国各地に散らばる風穴に担ぎ上げ、石室を
深くして貯蔵するわけにはいかない。
まずは、病院や大学等のように、非常用電源への切り替えが可能な安定した保管施設の確保が前提になる。シーケンサーをはじめとした実験施設や試薬は、他へ
の提供が必要になる場面があるかもしれない。業務用冷凍庫があったとしても、非常用電源が心もとない施設では、夏ならば数日の停電でも溶解してしまう。さ
らに、大規模な火災などが生じやすい工業地帯、あるいは燃料貯蔵施設や原子力施設の周囲なども、災害時に何が起こりうるかということを念頭に置いておかね
ばならないだろう。
震
災直後に、しばらく身動きの取れなかった小笠原から戻るとき、いつもは周囲の仕事の邪魔しかしていない私が、居候先の法医学教室に貢献できる場面はないも
のかと、ない知恵を絞ろうとした。輸送がすべて途絶えたなかで、DNA解析の試薬を東京から山形に運ぶことはできないか。DNA解析による個人識別の需要
が急増しそうだとの思いもあった。今思えば、本当に必要なものは自衛隊の緊急輸送車ですぐに搬送されるのだが、当時はそこまで頭が回らなかった。しかし、
試薬の運搬さえも叶わなかった。冷凍での宅配便が稼働していない状態で、東京中のドライアイスは被災地の安置所に送られ、民間に回せるものはなかったから
だ。結局、私は教室の上司の方々に心配をかけただけで、普段役に立たない人間は非常時にも役に立たない、ということを証明しただけに終わった。
こ
うした場面での危機管理が、しっかりとできていることをつくづく感心したのが新聞社だった。工場の大きな輪転機は、電圧の足りない非常用電源では動かず、
山形新聞社では秋田・新潟・福島などの各社と連絡をとり、結果的に新潟で印刷して急送し、翌朝の配達に間に合わせたという。停電が続いてテレビ・パソコン
の使用が限られる状態では、8面の臨時版とはいえ、新聞が人々に運んだ大きな写真の情報は重かった。
いかに知恵を駆使して翌日の朝刊を間に合わせたか、という話を、山形市
内の飲み屋で山形新聞社のデスクから聞きながらビールのジョッキを傾けていたのは、4月7日の深夜のことだった。その直後、最大の余震が起こって店のなかも真っ
暗になり、相当に飲んだはずのデスクの方々も「停電で輪転機が止まる。時間が遅いから、前回(3月11日)よりもまずいぞ!」と言葉を交わしながら本社へと急がれた。そして
翌朝の8時30分、新潟で印刷された4面だけの朝刊
が山形県内の各戸に届けられたのだ。
この震災のなかにあって、事前の万全な対策によって欠刊を回避した新聞
社は、危機管理が最も進んでいた組織に違いないのだが、報道機関だけにニュースにも記事にも出ず、意外なほど人々に知られていない。
被災者は皆、置かれた状況から、結果として強靭な精神力で乗り切ることを強いられ、失われた標本のことを聞いても表情を崩さずに「災害ですから」と言われ
る。笑顔を絶やさず、そして支援に対する感謝しか口にしない。彼らの口から本音が出ることは、当分はないだろう。だからこそ、「支援した」
「感謝された」という、外部の視線からの美談で終わってしまいがちになる。
ところで、救援の声が上がった公的博物館の標本には対策がとられたが、同時に少な
からぬ個人所蔵の化石や植物の標本、写真、ノート、文献が、家とともに海に
消えたことに誰も触れず、博物館業界の組織的支援だけが取り上げられることに、もどかしさを感じることも確かだ。日本の自然史研究は、ほぼ個人資料の蓄積
によって支えられてきたことは論を待たない。博物館の標本も然り。今回のような非常時に、そうした民間の個人資料は、残念ながら完全に蚊帳の外に置かれて
いた。どのような被害があったのかという情報の一元化さえなされていないことは、今の日本の社会の大きな落とし穴でもある。
例えば、昆虫DNA研究会で、冷凍されたDNA資料の保管状況と、災害時に想定さ
れる危険性について情報をとりまとめ、それぞれの施設内での対策に結びつけ
てはどうだろう。課題の共有なくしては、今後も同じようなことが繰り返される。もちろん、博物館の支援も多くの努力によって支えられていることは、一端に
関わったものとしてよく承知している。ただ、それだけを美談に終わらせてしまっては、標本やノートとともに消えた在野の研究者の情熱が、いつまでも浮かばれないのだ。
|
永幡 嘉之
自然写真家
|
2011.8.10
No.3
首都圏をナガサキアゲハが舞う時代に 柏 原 精 一
身近な生き物を採集して名前を調べ、それらをじっくり観察することから
生物学は始まる−−われわれ戦後のベビーブーマー世代は、そうしたきわめて真っ当な科学教育を受けて育った。昆虫採集が奨励され、集めた標本をそのまま持
参すれば、それが夏休みの宿題になる。自由研究のテーマに悩まされることなどない、昆虫少年にはありがたい時代。多少勉強のできる子より、珍しい虫を採っ
てくるやつの方が、子供うちでの序列はずっと高かった。いつから世の中は変わってしまったのか……。
昆虫少年の数は現在の比ではなく、チョウを中心に、東と西、あるいは南と北の子が
文通を通じて行う標本の交換がはやった。雑誌「子供の科学」だったろうか、希望の種と提供できる種を列記して文通相手を求めるコーナーもあった。
もちろん私も、そのネットワークに加わった。関東、関西圏の子が多かっ
たから、当時、南国・熊本市に住んでいた私にはかなり有利だった。提供種の中にはミカドアゲハ、クロコムラサキ、サツマシジミなど一工夫しないと得られな
いものもあったが、「主力商品」のナガサキアゲハやツマグロヒョウモンは自宅の庭でいくらでも採れた。それが九州では絶対見られないギフチョウやキベリタ
テハに化けて戻ってくるのだから、これはもう止められない。中学を卒業するころの標本箱には、日本の土着種とされていたチョウ200種の8割
以上が並ぶようになっていた。
それから約半世紀、今の私は九州からは千`も離れた横浜市に居を構えている。10
年ほど前から、庭先にナガサキアゲハやツマグロヒョウモンが姿を見せ始
め、大陸からの人為的帰化が濃厚なアカボシゴマダラと並んで、あっという間に見かける頻度の最も高いチョウになった。今や、私の周りのチョウ環境は九州に
暮らした少年時代そのもの、ここに住みついたころには想像もつかなかった風景である。数十年をかけてはるばると訪ねてきてくれた元カノという気分がないで
もないが、やはり違和感の方がはるかに強い。標本の物々交換という美風が今日まで続いていたとしても、現在の九州の子たちには私のような錬金術が使えなく
なっていることは、少なくとも確かである。
チョウに限らずさまざまな昆虫の北上が話題にのぼる。原因についてはま
だ議論が残るにしても、日本列島の温暖化傾向はもはや動かし難い事実のように私には見える。ナガサキアゲハの幼虫が食べるミカンやカラタチ、ツマグロヒョ
ウモンの幼虫が好むパンジーは、関東地方の市街地にもいくらでもある。彼らの分布拡大を阻んでいたものが冬の寒さだったのであれば、気温が上がれば北進す
るのは当然のなりゆきだということである。
一見、周囲の自然が賑やかになったようにみえるが、たぶんそうではな
い。南方系の生物がこれだけの速度で進出しているということは、北方系の生物は同じだけのペースで後退しているということだ。豊かさは、ただ単に、新たに
いるようになったものは目につきやすいが、いなくなったものは気づきにくいという人間心理の落とし穴に過ぎない。事実、過去の多くの絶滅が、ほとんど誰に
も気づかれないまま起きてきた。注意深く監視していないと、とんでもない事態になってしまうかねない予感がする。
もっとも、単純な図式には当てはまらない、温暖化の反動とも思える現象
もいくつかある。たとえば、ウスバシロチョウの勢力拡大。本来は寒冷地のチョウであるはずが、気温上昇とともに分布を南に広げたり、低地に下りたり、他の
チョウとは逆行している。気候変化によるものではなく、幼虫の食草ムラサキケマンが生える荒地が広がったことが原因だとする説が有力視されているようだ
が、広い範囲に同じような傾向があることからすると、それだけが原因とも思えない。渓谷のチョウとして有名なスギタニルリシジミの分布は、なぜか非渓谷地
域に広がり始めている。こちらは、本来の食樹とされるトチノキの非分布域へも進出していて、食性の転換を伴っているのは明らかだ。
温暖化が人為のもたらしたものであるなら、それはけっして好ましいもの
とはいえないのだろうが、それを急激に止める手だてがわれら人類にないことも確かである。生物の分布が一気に書き換えられるような気候変動をわが身で実感
できるような機会がそうたくさんあるとは思えない。DNAそのものの変異や、エピジェネティックな変化など分子レベルのチェンジ
もすでに始まっているかもしれず、いっそこれを環境と生物の相互作用を知るための壮大な実験ととらえてはどうなのだろう。動態としての生物の進化や多様性
に迫るチャンスが到来したのだ、という発想もあっていいのだと思う。
|
柏原 精一
サイエンスライター
|
2011.6.20
No.2
「採集から実験へ」 新しい昆虫少年の育てかた 八 木 孝 司
私は昭和28年生
まれで、物心付
い
た時には高度経済成長が始まっており、京都市内の小学校周辺にあった空き地、水田、林が年々住宅地に変わって行くのを目の当たりにした。それでも小学生の
夏休みは毎朝6時から虫取りで、金閣寺前の水銀灯に前夜飛来したカブトムシを誰よりも早く取りに行く競争をした。小学校の5、6年はチョウに興味が出て、
京都市内のチョウを全種類集めてやろうと小学生なりに思っていた。しかし中学生になると上には上がいることを知り、彼の標本箱に野外で見たこともないウス
バシロチョウが入っているのを見て驚いた。親や兄に採集に連れていってもらうのはずるいやつだと思った。中学校と同じ敷地にあった同志社大学の昆虫標本展
示を大学祭の際に見に行き、ヒサマツミドリシジミの標本を見せてもらった。後翅裏面のVサインはこの時初めて教わっ
た。ほどなくヒサマツミドリシジミの生活史が解明されたとの記事が新聞に掲載され、あのチョウがそんなに珍しいもので、さらにそれが京都にいることを知っ
て驚いた。京都北山の杉峠がヒサマツミドリシジミの聖地だとは、中学生の私は知る由もなかった。私より5歳〜10歳上の世代はそれまで未知だった日本の
チョウの生態が続々と解明された黄金時代を過ごされたと思う。交通も不便で未開拓な場所が日本にたくさん残っており、そこでの採集と観察によって得られた
新しい知見は山のようにあった。
現
在はどうだろう。昆虫少年はい
なくなって久しいし、大学の理学部生物科学科に昆虫が好きで入学する学生など一人もいない。身の回りの昆虫は極端に少なくなり興味の対象そのものが身近に
いなくなった。地元同好会や博物館が昆虫採集会を開催しても、簡単には新たな知見が得られなくなった昆虫を採集する意義もその楽しさも子供達に伝えること
ができない。黄金時代の大人たちは、自分たちが楽しんだ思い出をそのまま引きずって、同じように子供達を巻き込もうとしている。子供達が身の回りの昆虫を
採集して疑問に思うことのほとんどはすでに大人達が明らかにしてしまった。これでは昆虫少年は育たない。昆虫少年から理科好きが生まれ、科学者が生まれる
という道筋はもう存在しないように思える。
で
は何をすればよいだろうか。昆
虫を採集し形態の細部を調べて分類したり、地域によってわずかに異なる斑紋の違いを調べたり、いつどこに何が何頭いたかを調べたりするような、従前の昆虫
研究は面白くないのである。私は実験だと思う。子供は理科実験が大好きである。大学の公開講座の時には小さな簡単な実験でも子供達の参加希望者が殺到し、
キラキラ輝く目を見ることができる。潜在的には昆虫好きの男の子はたくさんいるので、大人が次のような指導をしてみてはどうだろう。野外の体験で不思議だ
と感じた事柄を大切に書き留めておかせる。不思議な事柄の生じる理由やメカニズムについて仮説を立てさせる。仮説が正しいことを示すにはどのような実験を
したらいいか考えさせる。同好会や博物館は子供達に自宅で実験させ、月に1、2回実験の指導を行なう。
高
価な装置や材料を使わず、自宅
でできる実験はたくさんある。最近そのことを自身で示されたのは平賀壮太先生である。「アゲハチョウの幼虫は表面がザラザラした場所で蛹化した時に灰色の
蛹となる」という仮説を立て、それを自宅で見事に証明された。実験を論理的に組立てていくプロセスがすばらしい。そこら辺にある材料だけを使って得られた
研究結果が一流の国際雑誌に掲載された。私も授業や会議に行く時に大学のキャンパスを歩くだけで、不思議に思う事柄にいくつも出くわす。それから立てた仮
説には、例えば次のようなものがある。「ハラビロカマキリの幼虫は黄色い花を選んで集まる」「モンシロチョウの本来の生息地は荒れ地である」「ゴマダラ
チョウの幼虫が樹上越冬するのは木の根元に落葉がない時である」。これらを証明するための実験は少し考えれば組み立てることができる。小学生から大人まで
1人で実験に取り組むことができる。あとはいかにエレガントに確実に証明してみせるかが腕の見せどころである。
高
価なPCR装置やDNAシーケンサーを使うことが優れた研究ではない。一番
必要なのは自然を不
思議に思う感性を養うこと、次に仮説を証明するための実験の組立てを考えられることである。新しい昆虫少年は「採集から実験へ」、それが理科好きを育て、
創造力豊かな科学者を作ることになるのではなかろうか。唯一の危惧は、採集と分類ばかりやってきた大人にこれが本当に指導できるかという点である。
|
八木 孝司
大阪府立大学大学院理学系研究科 教授
|
2011.5.8
No.1
昆
虫研究者はなぜ減少しているか? 大 澤 省 三
このところ、虫好きの若者がだん
だん少なくなくなってきた、という嘆きが方々で聞かれる。日本の山野が開発ラッシュで、虫のすみかが激減したこともあろうが、虫以外の低俗?なゲームの氾
濫なども若者の興味が虫などへ向かなくなったのも一因としてあげられよう。
しかし、私はそれ以外のもっと大
きな原因は、いわゆる我が国の昆虫学のmajorityが、古色蒼然とした記載分類学で占
められていることによる、と思っている。例えば、赤紋を持つ近似種は「斑紋は赤」と書くが、面白いことには、一方の種の赤は色素系、他方は構造色である場
合があるし、同じ黒(または赤)色でも色素が異なるなど、単に記載を読んだだけでは分からない。このような例は他にも山ほどあり、最終的にはこれらの色を
支配する遺伝子の同定とその発現の制御機構を知る必要があることはいうまでもない。このような事実に、昆虫の多様性の一端が隠されており、進化の機構の解
明にも貢献するであろう。今やこれらの解析は可能となりつつある。
これだけ生物学が長足の進歩をと
げ、高校などの教育の場でも、かなり高度な新しい生物学を教えているのだから、よほどの例外を除けば、将来、現在の日本の“純昆虫学”の研究機関に入って
一生をすごそうとする若者が減少し、それに伴い、アマチュアの虫屋の目的意識にも変化が現れるのは当然の帰結である。某全国誌の昨年度の甲虫の回顧の項を
みると、昨年記載された新種のリストが主体で、昆虫DNA研究会で次々とだされる“本当に昆
虫は面白い” と私が思う研究はほとんど出てい
ない。
私は、分類学は必要不可欠なもの
だと思ってはいるが、ここまで進歩した生物学全体からみると、これまでの分類学は10%くらいあれば、昆虫学全体(もっと
一般的にいえば、生物学)からみて十分であると思う。それには、博物館や大学の昆虫研究室の定員を少なくとも数倍に増し、分類学者だけでポストを独占しな
いことが必要である。そうすれば虫好きの若者の多くは、昆虫にはもっと、もっと面白いことが山ほどあるのだから、いろいろな新しい技術や考え方を身につ
け、新しい昆虫学の道へ進みたいと感じるのではないかと思う。私が学生だった頃(60年も昔)、故江上不二夫先生が「今
大勢のひとがやっていることはやるな。自分で面白いことをみつけ、それを面白くせよ」といわれたが、今や昆虫学にとって、これが重要なのである。要する
に、人まねはするな。自分で道を切り開け、ということである。
昆虫の途方もない多様性からみれ
ば、分からないことだらけである。昆虫は全生物のmajorityを占めるのだから、昆虫抜きでは進
化の本質も分からないと思う。このところ、モデル生物を使って、新しい現象や、これまで想像もできなかったような技術がつぎつぎと出てきている。これを真
似しろ、というのではない。若い世代の方はこれらをうまく利用し、改良し、更には自身で独自なやり方を見つけて、面白い虫の世界を現象として見るだけでな
く、どのような仕組みでこのようなことが起きているのか、言い換えれば、現象の本質を解明してほしい。そうなって始めて昆虫学は精密科学が仲間と認められ
るのである。このような観点からみて、昆虫DNA研究会の役割はこれからますますや
大きくなるであろう。
|
大澤 省三
名古屋大学・広島大学名誉教授
|
|
2015.02.15
No.16 昆虫と植物 長谷部 光泰
どういうわけか、もの心付いて
からずっと植物が好きだったので、昆虫の明確な記憶は小学校一年生の夏休みの自由研究です。段ボール箱に野山の絵を描き、それぞれの昆虫の成育場所に虫を
配置しました。1970年代初頭は生態の中で生物を理解するという時流だったのでその影響だったのかなと思います。町中に住んでいたので、オオムラサキが
良く来るクヌギの木があったのですが、あこがれのカブトムシやクワガタはおらず、カナブンばかり。そのうち、友達の家にあった食虫植物に心を奪われ、今日
に至っています。
大学は植物学教室で大学院の研究室は植物園にあったので、学部で高橋景一先生の無脊椎動物学を受講して、R.M. Alexanderさんの「The
Invertebrates」を読んで無脊椎動物の多様性に魅惑されたのと、石川統先生のゼミで茅野春雄先生の「昆虫の生化学」を半年かけて読んで面白い
なと思ったくらいで、昆虫との深いつきあいはありませんでした。大学のサークルは生物学研究会で、水生昆虫屋の坂本竜也くんや田辺秀之くん、クワガタ屋の
濡木理くん、虫全般の深津武馬くんなど虫屋はたくさんいたのですが、清澄に行ってもルーミスシジミよりはナガサキシダモドキに魅力を感じていました。
虫に興味を持ちだしたのは縁あって基生研に来てからです。赴任してしばらくして、所長の毛利秀雄先生がラボに来て「長谷部君、チョウやらないか」といき
なりおっしゃって、自らピペットマンを握って、技術支援員の百々由希子さんに実験を教え出しました。その後、九大の三枝豊平先生から集中講義の機会をいた
だき、伺ってお話をしているうちに、三枝先生が妻の祖父の江崎悌三先生のお弟子さんであることがわかり、また、三枝先生がクレマチスの育種家で食草として
以上に植物に精通されていたこともあり、その後、多々ご指導いただいています。また、矢後勝也くんをはじめ多くのお弟子さんにも御世話になっています。毛
利先生は、日本で平行的に生じていたチョウのDNAを用いた系統解析グループがうまく情報交換できる場を作れないかと考えられ、蝶類DNA研究会を設立さ
れました。この会は蝶類に限らず、昆虫全般にまたがり、学部学生のころからいろいろご教示いただいていた分子進化学の大澤省三先生や、授業で集団遺伝学の
いろはを教わった尾本恵一先生の昆虫学者としての一面をはじめ、多くのことを学ばせていただきとても有益でした。渡辺一雄先生には、ギフチョウ採集に連れ
て行っていただいてカンアオイの進化に興味を持つきっかけを作っていただいたり、その後もいろいろな事で御世話になりました。
研究面では、基生研OBの阿形清和さんや植物学教室の一つ後輩の塚谷裕一くんと日本ではじめてのエボデボのシンポジウムを「動物と植物の発生の違い」と
いうテーマで開催し、動物を植物と比較することの面白さに気づきました。そして、基生研の上野直人さんが代表をされた動物発生の特定領域で、ハナカマキリ
とコオロギを研究されていた野地澄晴先生の班に加えていただき、動物の方々と5年間同じ研究グループに所属し、多くの刺激を受けました。その班会議の時
に、蛾好きの倉谷滋さんを勝手に師匠と仰ぎ、班会議の休み時間や夜に虫取りに励み、その流れで、月刊誌「遺伝」に動物と植物の発生の違いについて2002
年から2年間リレー対談をさせていただきました。この内容、若さ炸裂、今でも面白い点が多いので図書館で探してみて下さい。その頃、移動する話があったの
ですが、移動したくなかった妻の「近所にいい山が売ってるよ」というすばらしい内助により、ひと山買って(山林はおどろくほど安く税金もほとんどかからな
いのでお勧めです)、毎週、灯火採集で昆虫箱にいくつも虫を集め、クワガタブームもあっていろいろな種類のクワガタを育てました。そして、都立大学に集中
講義に伺ったときにいろいろ進化についてお伺いしたことのあった石川良輔先生の「昆虫の誕生 :
一千万種への進化と分化(中公新書)」に出てくる昆虫をシミからチョウまで採りまくり、体系だって昆虫の勉強をすることができ、ますます興味が湧きまし
た。この頃、パプアキンイロクワガタの色彩多型に興味を持ち、ラボの培養室の棚下を使って一人で数百匹の交配実験を始めました。ただ、長期出張すると世話
に困るのと、継代するにつれ近親交配の影響がひどく、6代ほど継代したところで中止してしまいました。この続きは定年後にやろうと思っています。
毛利先生の研究はどんどん進展し、三枝先生、千葉秀幸さん、八木孝司さんを始めとした先生方のご協力のもとセセリチョウの系統についての論文を発表でき
ました(Tanikawa-Dodo et al.
2008)。このころ、東大でゼブラフィッシュで生物時計を研究していた真野弘明君が子供のころからハナカマキリの研究がしたかったんだけど、どうしたも
のかと相談に来ました。そんな面白いもの学振特別研究員に出したらぜったい通ると励ましたところ、見事な申請書を書き上げ無事採択されました。さらに、北
大農学部にいた大島一正君が、学振特別研究員としてクルミホソガのホストレース転換の仕事をうちでやりたいといきなり訪ねてきて、たしかに我々のゲノム技
術と組み合わせれば、ホストレース転換の原因遺伝子が単離できそうだったので、学振特別研究員への申請を了解したところ、これまた採用されました。植物関
係で申請していた方も他にいたのですが、いつも通るのは昆虫ばかり、しかも、極めて個性的かつムードメーカーの二人が植物ばかりだった研究室に加わり、い
ままでと違った雰囲気で一同、多いに盛り上がることとなりました。大島君は、百々さんが実験を行い、毛利先生と三枝先生が中心となって進めていたタテハ
チョウの系統の論文を生物地理とホストレース転換の観点から面白くまとめてくれました(Ohshima et al.
2010)。ハナカマキリの擬態とクルミホソガのホストレース転換原因遺伝子はもっか研究進行中ですので、結果はお楽しみに。また、大島君とホストレース
転換の研究について折々いろいろ議論していくうちに、「複合適応形質の進化」の代表例であることに気づきました。複合適応形質とは、一つの変異では適応度
が下がってしまうが、いくつかの変異が重なると適応度があがるように見える形質です。例えば、ホストレース転換は、幼虫が新しいホストを食べられるように
なる変異と雌親が新しいホストに産卵するという2つの変化が起こってはじめて進化します。幼虫と雌親の両方の形質が進化する、しかも、同じホストに転換す
るように進化することは極めて困難に思われますが、昆虫ではホストレース転換は頻繁に起こっており、なんとも不思議です。これが一つのきっかけとなって、
亀の甲羅の倉谷滋さん、アゲハの擬態の藤原晴彦さんと堀寛先生、昆虫の共生の深津くん、カイコのホストレース転換の嶋田透さんたちと新学術領域を立ち上げ
ることができました
(https://staff.aist.go.jp/t-fukatsu/SGJHome.html)。
さて、そんなわけで、私はもっぱら植物中心に研究を進めているのですが(http//www.nibb.ac.jp/evodevo;http://www.nibb.ac.jp/plantdic/blog/; http//www.nibb.ac.jp/evodevo/tree/00_index.html)、
いつも動物、特に昆虫と比較する癖がついてしまいました。植物を見ながら、動物ではこんなことはおこるのかな、動物の何にあたるのかなあ、といつも考えて
います。昆虫は、転写因子によってひとかたまりの組織を区画化して発生しますが、植物が花を形成するときに似たような仕組みを使っています。また、一つず
つ末端を増やしていく脊椎形成は、植物の分裂組織が繰り返し葉を作って伸びている様式と似ています。一方、細胞がレセプターの変化で動く場所を変えること
によって新しい器官、例えば顎が形成されるというようなことは、細胞が動かない植物では無いのかなと長らく思っていました。
ところが、年始めに面白いことがありました。ダーウィンがビーグル号で航海したころから、チリ南端にCaltha dionaefolia(食
虫植物のハエトリソウに似たリュウキンカ)という植物が知られていて、食虫植物ではないことはすでにわかっているのですが、その奇妙な形がどうしてできた
のか不思議に思っていました(図1)。たまたま、チリ南端のナバリノ島でコケの国際学会があったので、ついでに自生地を見に行きました。生のサンプルを良
く観察すると、たぶん、葉の一部が曲がって癒合したものかなと思えてきました。また、近所に別の種類のCaltha appendiculataと
いう種類も生えていて(図2)、こちらはさらに癒合がすすんで葉の上から葉が生えたようになっているのがよくわかりました。それぞれ以前に標本で見たこと
はあったのですが、自生地でいろいろな発生段階かつ個体変異のある集団を見ると、書物や標本だけを見るのとはかなり違った考えが誘発されてきます。南極の
寒風ふきすさぶ山の上で、ふっと思い出したのが金魚葉ツバキでした。この園芸品種、普段は葉先が切れる表現型なのですが(図3)、ときどき、葉の先端にも
う一つ葉を付けたような葉を形成します(図4)。これ、どうも、切れた葉の縁がくっつくとこのような表現型になるんじゃないかと思っていたのですが、リュ
ウキンカの葉の癒合と一緒に考えると、植物の新規形質進化における癒合の役割を調べてみたいなあ、と思えてきました。さらに、食虫植物のウツボカズラの突
然変異体で袋が閉じずに開いてしまうものを見たことがあり、もしかしてこれも癒合で進化したのかなどなど、いろいろなことが思い出されてきて、おもわず、
にやにやしてしまいました。さらに、動物の細胞移動って、要は、細胞同士の接触を変えることだけど、植物の癒合って今まで接触しなかった細胞が接触して新
しい形ができることだから、実は、仕組みとしては同じことじゃん、と気づき、おもわず、そっかあ、と口に出してしまいました。
一方、植物特異的かなって思える発生様式もあるかなと思います。ナバリノ島では電子メイルが読めなかったのですが、トランジットの時に、たまたま運良く
北米に自生する食虫植物サラセニア(図5)の捕虫葉形成の論文のレビジョン結果が届き、夜更かしして検討し、対応を筆頭著者の福島健児くんにお願いしまし
た。その論文(Fukushima et al.
accepted)は、サラセニアの捕虫葉は葉原基の特定の場所で細胞分裂方向を変化させることで袋ができるという、細胞分裂面制御がまわりまわって異
なった階層での大きな形態変化を引き起こしたという発見をまとめたものです。植物細胞は動けないので細胞分裂面の制御が後の形態形成に大きな影響を与えま
す。動物でも細胞運動が制約されている組織があるので、たぶん、似たような仕組みで進化した器官がきっとありそうです。ただ、私のように分野外のものが、
動物全体の文献を見直すのはほとんど不可能です。こんなときは、物知りに相談するのが一番。昆虫DNA研究会は、ふだんは接点のあまり無い昆虫関係の先生
方にお会いでき、いろいろ教えてもらえるので、かけがいのない知的好奇心充足の機会になっています。ぜひ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
Fukushima, K., Fujita, H., Yamaguchi, T., Kawaguchi, M., Tsukaya, H.,
and Hasebe, M. Oriented cell division shapes carnivorous pitcher leaves
of Sarracenia purpurea. Nat. Com. Accepted.
Ohshima, I., Tanikawa-Dodo, Y., Saigusa, T., Nishiyama, T., Kitani, M.,
Hasebe, M., and Mohri, H. (2010). Phylogeny, biogeography, and
host-plant association in the subfamily Apaturinae (Insecta:
Lepidoptera: Nymphalidae) inferred from eight nuclear and seven
mitochondrial genes. Mol. Phylogenet. Evol. 57: 1026-1036.
Tanikawa-Dodo, Y., Saigusa, T., Chiba, H., Nishiyama, T., Hirowatari,
T., Ishii, M., Yagi, T., Hasebe, M., and Mohri, H. (2008). Molecular
phylogeny of Japanese skippers (Lepidoptera, Hesperiidae) based on
mitochondrial ND5 and CO1 gene sequences. Trans. Lepid. Soc. Japan 59:
29-41.
図1 Caltha dionaefolia
図2 Caltha appendiculataの1枚の葉。
図3 金魚葉椿の先端が切れこんだ葉
図4 金魚葉椿の葉の先端にもう一つ葉ができたような葉
図5 サラセニアSarracenia purpureaの1枚の葉
|
基部被子植物のDrymisにご満悦!
チリ南部にて
長谷部 光泰
基礎生物学研究所 生物進化研究部門教授
|
2014.07.08
No.15 ベニシジミ類の謎
矢後 勝也
ベ
ニシジミという蝶をご存じで
あろうか。草原や田畑の路傍などでよく見られる小さな橙色のシジミチョウである。この仲間は世界からおよそ100種が知られており、その多くは草原性であ
るが、熱帯適応の種では森林性の属もある。幼虫は主にタデ科植物を食草とするが、北方では全く類縁のない植物に依存するものがいる。翅形や斑紋はかなり多
様で、一部では擬態も加わり、しかもこの多様性は雄交尾器等の形態の変化とはしばしば関連が見られない。また、ベニシジミ類の分布はかなり特異で、主に
ユーラシア大陸や北米に産するものの、ボルネオ、パプアニューギニア、中米、南アフリカ南部、ニュージーランドのような地域に少数の種が隔離分布してい
る。ところがこのグループの謎はこれだけではない。上記の翅の翅形・斑紋と雄交尾器との関係だけでなく、これらの形態変化と地理的分布との関連性さえも全
くないものばかりで、系統的な繋がりがさっぱり見えてこないのである。
この不思議さに最初に気付いたのは、「構造主義生物学」で著名な故・柴谷篤弘先生であった。1974年に先生はこれまでベニシジミ類の分布が全く知られ
ていなかったパプアニューギニアから新属Melanolycaenaを
創設して2新種M. altimontanaとM. thecloidesを
記載し、合わせて世界の主なベニシジミ類に関する高次分類の再検討を行った。その折に本群から形態や生態、地理的分布との関連でこのような秘めたる問題を
見出し、解明できれば「進化」や「適応」、「擬態」といった一般的問題を解くのに参考になると考えた(柴谷,
1999)。この矛盾だらけのグループにずっと興味を持ち続けておられたようだが、その謎を長く解き明かせないままであった。
1998年に修士院生として九州大学の大学院へ進学した私は、当時の世話人指導教官であった昆虫の形態学および系統学の権威、三枝豊平先生からの勧め
で、このベニシジミ類の高次分類の再検討と系統進化学的な研究を修士論文のテーマを選んだ。もちろん、三枝先生が柴谷先生からこの不可解な謎を聞いていた
のがきっかけである。この研究を行うにあたり、まずは柴谷先生からの承諾をもらうこと、合わせて本研究への協力を要請することを三枝先生からご指示頂い
た。早速、柴谷先生に手紙を書いてこれらのお願いを綴った手紙を送付したところ、間もなく丁寧なご返事が届いた。そこには私からのお願いに関する快諾と、
ご自身のコレクションが収蔵されている兵庫県立人と自然の博物館に足を運んで標本を見直したことが書かれてあった。その後、さらに二往復の手紙と電話のや
り取りを続け、柴谷先生と兵庫県博で直接お会いして本研究の問題と展望をご教示頂いた。柴谷先生と言えば、ベニシジミ類もさることながらゼフィルスの研究
でも金字塔を築き、フジミドリシジミの属名にも献名されているチョウ類研究の大家である。当時から丸出しのチョウ屋だった私にとって、柴谷先生は構造主義
生物学を唱えた理論学者としてよりも、むしろチョウ類の分類学者としてお会いした緊張と嬉しさの方が高かったことを憶えている。
一年半後、私は修士論文をなんとかまとめ上げ、ベニシジミ類の系統分類学的研究については一応の区切りがついたが、実は系統の部分ではしっくりこない違
和感があった。つまり、形態データを用いた系統解析ソフトによる最節約法で導かれた結果にあまり自信がなかったのである。それでも、柴谷先生にはお見せし
てご意見を伺いたいと思い、期待と不安が入り混じった気持ちで修論提出の前にその内容を郵送した。間もなくして、柴谷先生から一通の手紙が届いた。そこに
は「・・・そのうち廃人になるのではないかと、おそれおののいています。・・・字を書く能力も減少しつつあります。あいすみません、これ以上はムリのよう
です。」と記されてあった。これまで手紙のやり取りを先生と続けていた中で、さすがにこのような文章は見たことがなく、すぐに先生の体調を心配する気持ち
が込み上げた。この頃には、すでに気力や体力が衰えていたのであろう。その一方で、先生のご期待にお応え出来なかったのかもしれないという失望感も襲っ
た。先生のお考え以上のものを脱していなかったのであろうか。
その後、博士課程に進んだ私は、テーマをシジミチョウ科全体の幼虫形態と系統学に関する研究に広げたため、ベニシジミ類の研究をさらに追求することはな
かった。それでも系統関係の違和感や不安感はずっと拭えなかったため、機会があれば是非とも分子系統学的なアプローチから形態で得られた結果を検証したい
と考えていた。学位取得後、私は基礎生物学研究所の長谷部光泰先生の紹介で、陸産貝類の分子系統学的研究で知られる東京大学の上島励先生のところにポスド
クで雇用された。勤務時間外は自身の研究をしても良かったので、これはチャンスと早速ベニシジミ類の分子系統解析を始めることにした。この時のために
DNAサンプルだけは溜め続けていたのである。ミトコンドリアと核の双方のDNAから系統解析を進めながら、不足しているサンプルを求めてアフリカや中米
グァテマラなどにも訪れ、ようやくベニシジミ類の高次系統における全体像が見えたのは、本研究の着手から約10年後のことであった。
結果が出てみれば、系統地理学的な観点から最もリーズナブルに解釈できるものであった。例えば、パプアニューギニアに生息するMelanolycaena属は翅の斑紋や前脚跗節の形態から中米のIophanus属に近縁かもしれないとされていたが、分子系統ではむしろ外
観が異なるニュージーランドのグループと姉妹群を形成し、さらに双方を合わせた一群はチベットや中国西部の高地に生息するHelleia属
に近縁という進展則(progression
rule)でほぼ説明できる。では、分子系統解析による結果が実際に正しいかどうかが問題となるが、これを受けて形態を見直すと、不思議なことに今まで気
付かなかった共有派生形質が次々と見え始めた。このように分子系統の凄さを実感すると同時に、形態の収斂や平行進化は想像を超えて短期間で起こることが分
かり、二重の驚きが沸き上がったのである 。
柴谷先生の生前にこの結果をお見せしたかったのだが、それが叶わないのが唯一の心残りとなった。まだ海のものとも山のものとも覚束ない一介の修士院生
だった私に、多くのことをご教示下さっただけでなく、これまで書き溜めていたシジミチョウ科の雄交尾器の原図までを先生は私に託された。最近、それらの描
図を眺めては、本来受け取る資格があるだけの研究者に成れているかどうかを自分自身に問うと、まだ何も成し得ていないことに気付き、なお一層の努力が必要
であることを認識するのである。
|
矢後 勝也
東京大学総合研究博物館 助教
|
2014.02.07
No.14 今、伊豆諸島が面白い
荒谷 邦雄
私が初めて父と伊豆諸島の八丈島に採集に訪れたのは、今から30年以上前の中学3年の夏休みだった。当時、カミキリムシに大きな興味を抱いていた私にとっ
て、ハチジョウトゲウスバカミキリやハチジョウコバネカミリなど多数の八丈島固有のカミキリムシの珍品との出会いはまさに狂喜の連続だった。しかし、程な
くしてその幸せな状況は一変する。
「この島にはノコギリクワガタも沢山いるよ。」宿のご主人からその一言を聞いたのは初日の夕食の時だった。その時には、本土からこんなに離れ
た島にもノコギリクワガタがいるのだと少々驚きはしたが、7月下旬というクワガタムシ採集のベストシーズンと思われた時期であっただけに、沢山いるのであ
れば滞在中に簡単に採集できるものと、正直、高を括っていた。しかしながら連夜の灯火見回りでもノコギリクワガタは全く姿を見せない。3日目の昼間に島内
で最も良好な森林環境が残っている三原山の中腹を貫く林道上で、ノコギリクワガタと思われる翅の一部を拾った。こうなると是が非でも生きたノコギリクワガ
タの姿が見たくなった。最後の晩は目標をノコギリクワガタ一本に絞って必死の灯火探索を敢行した(父は虫屋でもないのに、私のために夜通しでレンタカーを
運転する羽目になった)にも関わらず、結果は惨敗に終った。 離島当日の朝、どうしても諦めきれない私は「最後の賭け」と称して、渋る父を説得し、宿から
わざわざ遠回りをして件の三原山の林道を抜けて空港に向かってもらった。しかし、願いもむなしく前日にノコギリクワガタの翅の一部を拾った場所を過ぎても
何も目立った成果はない。峠を下り、空港のある大賀郷の集落が見えると父は車のスピードを上げた。と、その時、レンタカーの車窓から路上にひっくり返って
いたクワガタムシの姿がはっきりと見えた。「いた!」そう叫ぶが早いか、私は車が停止するよりも早くドアを開けて外に飛び出した。最後の最後にやっとの思
いで死にかけたノコギリクワガタの小型の雄を拾うことができた瞬間だった。あの時の興奮は今でもはっきりと覚えている。たった1頭のしかも死にかけた小型
の雄ではあったが、生まれて初めて見た八丈島のノコギリクワガタは真っ黒で、まさに異国情緒たっぷり、慣れ親しんでいた本土のノコギリクワガタとは全く異
なった存在に見えた。
その後、学校の図書館にあった北隆館(昭和38年刊行)の「原色日本昆虫大圖館第2巻(甲虫編)」を調べてみると、この八丈島のノコギリク
ワガタは採集時の直感どおり、ハチジョウノコギリクワガタssp.
hachijioensis(当時の私にはこの表記の意味すら分からなかった)と呼ばれる八丈島と三宅島にしかない極めて特別なものであること、その一方
で本土のノコギリとの生態の違いなどに関しては全く解明されていないことを知った。「次こそこの特別なノコギリクワガタを思う存分に採集して、その生態を
解明したい!」それ以来、私の八丈島詣が始まった。
幸い私の実家(愛知県)の両親は放任主義で(もしかすると父は先の八丈島での経験で懲りたのかもしれないが)、未成年の私が単独で、しかも
学期中に(大きな声では言えないが当然学校を休んで)遠方の採集地に通うことも黙認してくれた。お陰で中学・高校時代の訪島を通じて、多数のハチジョウノ
コギリクワガタを採集できただけでなく、成虫の発生時期は本土産よりもずっと早く5〜6月であり本土での経験からベストシーズンと思っていた7月下旬では
遅過ぎたこと、歩行傾向が強く夜間にも活動するが灯火には集まらないこと、幼虫は枯れ株の根部や倒木の接地面に穿孔すること、雄が倒木の下で縄張りを張り
産卵にくる雌と交尾するために待ち構えていること、などハチジョウノコギリクワガタに関する数多くの新たな知見を得ることができた。ハチジョウノコギリク
ワガタ以外にも、ハチジョウネブトクワガタや当時まだ記録のほとんどなかったヒラタクワガタやコクワガタも採集し、亜社会性(家族生活)を送るチビクワガ
タの興味深い生態も解明することもできた。大学生になってからは八丈島だけでなく、御蔵島や三宅島にも渡り、ミクラミヤマクワガタやマメクワガタの採集に
も興じた。
ちなみに、私にとっての初めての報文である「八丈島におけるキボシカミキリの採集例」という短報(月刊むし No.
190:21-22.)は、この頃に八丈島で得られた標本に基づくものであったし、ハチジョウノコギリクワガタやチビクワガタの生態観察の結果は、その後
の修士論文「クワガタムシ科甲虫の繁殖生態」の主要部分となった。こうして見ると中学〜大学教養課程までの最も多感な時期に経験したこの一連の伊豆諸島詣
は、まさにその後の昆虫研究者としての私の原点となったと言っても過言ではない。
80年代後半から90年代半ばにかけて、いわゆるクワガタムシブームを背景に、伊豆諸島のクワガタムシに関する分類学的な研究が急速に進み、ハチジョウ
ヒラタクワガタやハチジョウコクワガタ、イズミヤマクワガタなどの新タクサが次々に記載された。ハチジョウノコギリクワガタに関しても、その独自の形態や
生態的特徴から「御蔵島以北の本土系ノコギリクワガタとは別系統の八丈島固有の独立種」とする興味深い見解が示された。一方、その頃の私は専ら琉球列島や
マレーシアをはじめとする海外の調査に没頭し、伊豆諸島とはすっかり疎遠になっていた。
しかし、数年前、思わぬ展開から私の中の伊豆諸島への情熱が再燃することとなった。きっかけはミトコンドリアDNAを用いた琉球列島のノコ
ギリクワガタ類に関する系統地理学的解析だった。解析に際して、南九州の亜種を含む本土各地のノコギリクワガタとハチジョウノコギリクワガタも加えたが、
結果を得る前、私は、ハチジョウノコギリクワガタが本土のノコギリクワガタとは別系統の種であり、いわば遺存固有種として八丈島に隔離分布したものである
ことが分子でも裏付けられると予想していた。ハチジョウノコギリクワガタの姉妹群候補として、雌の形態の類似性から中国や台湾に分布するマルバネノコギリ
クワガタを想定していた程である。しかし結果は予想外のものだった。ハチジョウノコギリクワガタは伊豆諸島の一部のノコギリクワガタ個体群と単系統群をな
し、しかもその分岐の程度はその他の本土産ノコギリクワガタの地域個体群間の変異と大差ないごく浅いものだったのだ。続いて実施したハチジョウノコギリク
ワガタと本土産ノコギリクワガタの詳細な形態測定学的解析の結果からも、ハチジョウノコギリクワガタにみられる形態や生態面での特殊化は、樹液という解放
的な餌場空間で喧嘩をする必要がなくなったために、コストのかかる大アゴの伸張をいわばやめてしまった結果として急激に生じたものであろうことが示唆され
た(これらの解析結果の詳細は2009年発行の昆虫DNAニュースレターNO. 2で紹介している)。
折しも、それまでごく僅かな個体しか採集されておらず、ほとんど知見の得られていなかった三宅島や御蔵島のノコギリクワガタ(私も採集して
おらず、当然、上記の分子系統解析にも使用できていない)が精査され、それぞれが本土の個体群とは別亜種として記載されるという事件(?)が相次いだ。こ
うなると三宅島や御蔵島の個体群を含む伊豆諸島全域のノコギリクワガタの分子系統地理学的解析を実施せずにはいられないし、ミヤマクワガタやヒラタクワガ
タ、コクワガタなどの解析結果も大いに気になってきた。幸い、長旅を覚悟せねばならなかった昔とは違って、今はヘリコプター路線も整備されて短期決戦で伊
豆諸島各島に出かけられる。それからは公務の合間を縫って、酷い時には現地滞在数時間という強硬日程で、各島の調査と解析サンプルの採集を繰り返すことに
なった。
こうして得られたサンプルに基づく伊豆諸島のクワガタムシに関する分子系統学的解析は、現在、まだ進行中の段階にあるが、予報的な解析から
は予想外の興味深い結果が数多く得られている。特に、御蔵島と神津島にしか生息しておらず世界的に見ても特筆される伊豆諸島の固有種として有名なミクラミ
ヤマクワガタの解析結果にはハチジョウノコギリを越える驚きがあった。
ミクラミヤマクワガタは小型のミヤマクワガタで同属の中では祖先的な種とみなされている。形態的な特徴から中国南部の黄河流域に分布するラ
エトゥスミヤマクワガタやパリーミヤマクワガタと同じ種群に含まれるとされ、従来の考察では、ミクラミヤマクワガタは、祖先種が中国大陸から日本、そして
伊豆諸島へと侵入した後、日本本土では何かの理由で滅んでしまい、伊豆諸島の御蔵島と神津島のみに生き残った、いわゆる典型的な遺存固有種と見なされてき
た。実際にDNA解析の結果からも本種がこれら中国産の種に近縁であることが裏付けられたが、その一方で、非常に興味深いことに中国産の近縁種とミクラミ
ヤマクワガタの遺伝的な距離は驚くほど近く、ミクラミヤマクワガタの祖先種の伊豆諸島への侵入(分布拡大)はごく最近に生じた可能性が示唆された。我々は
この結果から、ミクラミヤマクワガタの祖先種は伊豆諸島に隔離されたのではなく、古黄河の大氾濫によって比較的新しい時代に中国大陸から伊豆諸島に漂着し
た可能性が高いと睨んで、現在、その裏付けのための検証を試みている。
加えて、伊豆諸島には、系統地理のみならず、進化生物学的にも非常に興味深い題材が豊富にあることも明らかになってきた。例えば、調査の過
程で伊豆諸島のクワガタムシでは固有タクサやその近縁分類群の構成種や優先種が島毎に異なり、しかもそれぞれの固有タクサの生態や生活史が島間で大きく異
なっているなど非常に興味深い現象が観察されることが分かった。こうした島間の群集構成の差異や各島の個体群に固有な適応形質の進化には、自然選択はもち
ろん、漂着をはじめ偶発的な分散によって侵入した祖先個体群に働いた創始者効果や遺伝的浮動、さらには遺伝子流動や種間の競争など様々な要因が複雑に絡み
合っているらしいことも推定された。また、古くから議論のあった古伊豆半島説に代わって、最近ではフィリピン海プレートの北上に伴う伊豆半島の岩体の本州
への衝突と丹沢山地の形成など伊豆諸島の生物地理学に密接に関係する地球科学的な知見も蓄積されてきたことも今後の伊豆諸島の生物相に関する研究を大きく
進展させる要因となるだろう。
東洋区と旧北区の境界に位置し、東洋のガラパゴスと呼ばれるほど独自の生物相を育んできた琉球列島や、固有遺伝資源の宝庫として名高い小笠
原諸島の場合ほどの派手さがないためか、琉球列島に次ぐ固有タクサの宝庫であるにもかかわらず、伊豆諸島の昆虫相に関する系統・生物地理学的な研究は大き
く立ち遅れている感が否めない。一方で、大陸が分断されて形成された大陸島である琉球列島の様々な生物に関する近年の分子系統地理学的解析によって、それ
ぞれの島の生物相の形成過程は島の成立の時期や順番と極めてよく一致することも明らかとされている。しかし、うがった見方かもしれないが、これはある意味
予想され得る当然の結果であり、分断と分散(偶発的な拡散)の双方が絡み合う伊豆諸島の生物相の成立の解明は一筋縄ではいかないゆえに遥かに面白い。そも
そも大陸が分断されて形成された大陸島である琉球列島を火山性の海洋島であるガラパゴスになぞらえる事自体がナンセンスであり、この点ではむしろ伊豆諸島
の方がよほど「進化の実験場」たる東洋のガラパゴスと呼ばれるにふさわしいように思う。
このように生物学的に非常に興味深い伊豆諸島だが、極めて由々しきことに、近年、開発による生息環境の破壊に加えて多数の外来種が侵入し、
その貴重な在来生態系は壊滅の危機に瀕している。歩行傾向の強い伊豆諸島の昆虫類にとってはイタチとノネコなどの大型ほ乳類による捕食は壊滅的な打撃を与
えうる。イタチやノネコ以外にも、シカやキョン、ヤギの食害による森林植性の破壊も著しい。外来種問題に関しては、琉球列島や小笠原ではその対策が大々的
に講じられているが、伊豆諸島も手遅れになる前に、一刻も早く何らかの対策をとる必要がある。そのためにも、本稿がきっかけとなって、貴重な伊豆諸島の生
物相に一人でも多くの方が興味をもち、その多様性の解明や保全に係っていただくようになることを切に願う次第である。
|
荒谷 邦雄
九州大学大学院 比較社会文化研究院 教授
|
2013.06.27
No.13 チョウ屋の実力
毛利 秀雄
前にも書いたことがあるが、私は子供の頃からの
「チョウ屋」で
はない。今でも
そうではないと思っている。たしかに小さい頃から生き物好きであり、夏ともなれば真っ黒になってセミやトンボやキリギリスを追いかけていたが、チョウを
採ったり飼ったりした記憶はない。ファーブルを夢見ていても、飼ってみたいと思ったのはセミやアリであった。
生まれた翌年に満州事変が起こり、いやでも軍国少年として育った上に、父親が職業軍人であったので、長男である私は何の疑いもなくその後をつぐために陸
軍幼年学校に入った。陸軍将校を養成するための学校で、中学一年か二年を終えて入校し、三年後に予科士官学校、さらに士官学校(今の防衛大学校に相当)に
進むのである。しかし入校二年目に敗戦となり、こちらの目的は今から思えば幸運にも果たせずに終わった。
戦後は一転して好きなことをやろうということになり、旧制高校で大学の理学部に動物学科というものがあることをはじめて知って、東大の同学科に進学し
た。卒業して最初に就職したのが三崎の臨海実験所で、ここでウニの精子で実験を始め、以後精子をめぐる諸問題に取り組むことになった。その間精子の鞭毛の
主要な構成要素である微小管の主成分を新しいタンパク質と同定してチューブリンと命名する幸運にも恵まれ、精子学という学問分野を作ることができた。ずっ
と昆虫は他の人たちの研究テーマだと思っていた。
さてチョウとの出会いであるが、ちょうど大学紛争のころに家内の親が長野県の聖高原に山荘をつくった。行ってみるとかつて平山修次郎著の「昆虫図鑑」で
しか見たことのなかったチョウやトンボがたくさんいた。そこで周りのものだけでも全部採ってみたいものと、四十の手習いで昆虫採集をするようになった。残
念ながら採れなかったが、そこにはオオウラギンヒョウモンもまだいたようである。その後オーストラリアに留学した際に、当時シドニーにおられた柴谷篤弘御
大にいろいろと手ほどきを受け、チョウにはポイントというものがあることを学んだ。その縁で尾本恵市さんや藤岡知夫さんとも知り合うようになった。
東大を定年で卒業して放送大学に行ったら、そこにはチョウの鱗粉を走査電顕で観察していた「チョウ屋」の新川 勉さんがいた。ここでチョウの精子の電顕
をやりかけたが、間もなく基礎生物学研究所の所長として岡崎に赴任することになる。後任には大学の同級生でミトコンドリアの権威である中沢 透君がきた。
ちょうど大澤省三さんが生命誌研究館でミトコンドリアDNAによるオサムシの分子系統を始めたころである。
新川さんは中澤君の弟子の牧田裕道君と大澤さんにテクニックを教わって、ギフチョウの起源についてミトコンドリアDNAで一つの答えを出すことになる。
私は基生研の所長としてもっぱら研究所の運営に努力していたが、植物の分子系統のパイオニアである長谷部光泰君が岡崎に赴任してきた機会をとらえ、大澤さ
んや尾本さん、八木孝司さんたちとも語らって、当時まだまだ高価だった研究所のシーケンサーも動員し、チヨウの分子系統の全国的な共同研究を立ち上げるこ
とにした。
さてこれからが本題である。このプロジェクトには全国の「チョウ屋」さんたちが協力してくれた。もう十数年前のことになるので今よりはまだましだった
が、すでに多くのチョウが国の天然記念物であったり、絶滅危惧種であったりするので日本産のものを集めるのも一苦労であった。特に一時はそれが最後の標本
になるかも知れないと思われたオガサワラシジミの採集については感謝しきれない。これで多くの「チョウ屋」の方々とコネを持っことができた。研究所の事務
方も文化庁や環境省の採集許可をとるのに大いに協力してくれ、心から感謝している。
岡崎を定年で退いて間もなく、三枝豊平さんの示唆で矢後勝也さんたちとゴマシジミの分子系統をやることになった。それまではむずかしい採集は「チョウ
屋」の皆さんにお任せしてきたのであるが、ここで初めて自らあちこち採集に赴くことになった。その最初は竜飛岬をはじめとする津軽半島であった。ここでゴ
マシジミを採集し続けている北海道の山本直樹さんと出会い、プロとはこんなものかとその見事な採集ぶりにほとほと感心した。チョウの採集に関しては、ご一
緒してみて、矢後さんや山形の永幡嘉之さんたちの力量にも大いに感じ入った。
ゴマシジミは北海道や青森を除き今や点々としてしか生存せず、試料を集めるのも大変であった。この十年の間にも採れなくなった場所がある。折角岡崎にい
たのに愛知県、静岡県ではこのプロジェクトが始まる前に絶滅してしまったのが何とも口惜しい。乾燥標本からではまともなDNAが抽出できないからである。
それでもどうやら大陸の試料も含めた分析結果が近いうちに論文になると期待されるようになった。
これとは別に、近年は私が私的にまだ出会っていないチョウを求めてあちらこちらに出向いている。これらのチョウのほとんどが我が国の絶滅危惧種や地域限
定種である。ここにおいて発揮される「チョウ屋」の皆さんの実力のほどにはまことに感嘆を禁じ得ない。ピンポイントで場所や時期を教えていただくのである
が、多くの場合成功している。驚くのはその場所には必ずと言ってよいほど別の「チョウ屋」さんがいることである。つい先日も新潟県のクモマツマキチョウを
求めて糸魚川近くのポイントに行ったが、伊藤建夫さんに遭遇しただけでなく、そこに二、三日通っているという東京や名古屋の人、じっとある場所で待ち構え
ている若者などがいた。
矢後さんの誘いで蝶類学会に顔を出してみても、分類や生態、その他チョウのもろもろに関する「チョウ屋」さんたちの知識、見識には、今更ながらつけ刃で
は太刀打ちできないとつくづく思い知らされている今日この頃である。吉川 寛、平賀壮太、伊藤建夫という元(?)「チョウ屋」のすぐれた分子生物学者たち
がいるのも、子供の頃から観察結果をいろいろと分析・考察するくせがついていたためであろう。それでも「蝶類DNA研究会ニュースレター」では、少しは
「チョウ屋」さんたちに貢献できたのではないかとひそかに思っている。
|
毛利 秀雄
東京大学および基礎生物学研究所 名誉教授
|
2013.05.20
No.12 虫屋になれなかった私と昆虫DNA研究会
大場 裕一
「虫屋」は、私にとっていつも憧れとコンプレック
スの入り交
じったフクザツな感情を惹起する魔法の言葉であった。子供の頃は昆虫が大好きでいつも昆虫図鑑を抱えて歩き「将来は昆虫学者になるんだ」と言ってまわって
いた。しかし、中学生の頃に母親に言われたひとこと――
「いまの昆虫学者は殺虫剤を作る研究しかしてないからやめときなさい」
この一言で、私は昆虫好きも昆虫学者の夢も放棄してしまったのである(ちなみに、ずっと後になってからその話を母にしたところ「あらそんなこと言ったか
しら」とまったく覚えていないようだった)。
「虫屋」に復帰するチャンスがその後に一度だけあった。北大に入学した私は、子供の頃の夢を思い出して虫研(昆虫研究会)の戸を叩いたのである。しか
し、いざ入部するや、さっそく薄暗い喫茶店に連れて行かれて男4人でコーヒーをすするだけの地味な毎日(当時、部員は私を含めて4人しかいなかった)。
「これでは、私の青春は終わるな」
そう思った私は早々に退部し、以降は虫とは無縁の大学生生活を送ることとなった。しかし、虫たちと縁を切ったからといって、とくに楽しい青春時代が訪れ
たわけでもなく、私はただ「虫屋」という言葉に対していよいよ深い憧れとコンプレックスを募らせたのであった。
修士課程まで私は有機化学を学んだ。その後、生物学に転向し岡崎の基礎生物学研究所に進学したが、博士課程で選んだテーマは魚類の生殖生物学だった。も
ちろん、昆虫とは全く関係がない。だから、毛利秀雄先生や岡田節人先生や大平仁夫先生というスゴい虫屋がすぐ近くにいたことにはまったく気がつかなかっ
た。ここでもまた「虫屋」になるチャンスを逃していたのである。
その後、名古屋大学に移ってから、生物発光の研究をやることになった。発光生物なら何でもよかったのだが、あえてホタルをライフワークのひとつに選んだ
のは、たぶん虫屋に対する長年の憧れとコンプレックスのせいであろう。
コメツキムシにも光る種類がいるということで、なんの紹介もなく大平仁夫先生に手紙を書いてみた。すると、コメツキムシについて全く知識のなかった私を
大変親切にご指導下さった上に、大澤省三先生を紹介して下さり、ちょうど発足したばかりの昆虫DNA研究会への参加も勧めていただいた。さっそく参加して
みたら、
「あれー?」
生殖生物学の方ではよく存じ上げていた毛利先生や堀寛先生が座っていたのでビックリした。おふたりとも隠れ虫屋だったのだ(隠れていたわけではないと思う
が)。
昆虫DNA研究会は、私のような虫屋コンプレックスを抱えた単なるムシ好きを暖かく仲間に入れてくれた。それが嬉しくて毎回参加しているうちに、この研
究会こそ我がホームグラウンドであり最も居心地の良い場所であるように思えてきた。そんな訳で、2010年より本会の事務局を引き受けさせて頂くことに
なった。ほんとうの「虫屋」になれなかったかわりに、せめて「虫屋」の皆さんのお手伝いができることが今はとても嬉しい。
本研究会には、虫好きをそのまま生業とした昆虫学者、昆虫が大好きだけれどそれを職業としなかった科学者、昆虫を趣味としているアマチュア愛好家、そし
て私のように虫屋にはなれなかったが昆虫を研究している科学者など、いろいろなタイプの会員が所属している。しかし、全員の思いはひとつ「昆虫が好き」な
のである。そしてお互い同士をうまくつなぎ合わせているのが「DNA」のキーワードではないかと思う(このキーワードがなければ、私の出る幕はなかっ
た)。私のお気に入りの素晴らしいこの会、せめて私が事務局を続けている限りは存続させたいものである。
|
大場 裕一
名古屋大学大学院生命農学研究科 分子機能モデリング研究分野 助教
|
2013.04.22
No.11
コラム 中峰 空
現
在、私は兵庫県三田市の三田市有馬富士自然学習センターに学習指導員(三田市嘱託職員;昆虫担当)として勤務している。展示物作成、自然学習に関わる来館
者サービス、教育普及活動などが主な業務である。当センターの主な来館者層は小学生以下の子ども達であるため、できるだけ分かりやすく生物の“面白さ”を
伝えるために頭をひねる日々を送っている(ちなみに自己紹介写真に写っているのは過去の展示に用いたテイオウゼミの標本
で、翅の開帳はおたふくソースの容
器と同じくらいの大きさであることに注目)。
生きもの好きの子どもがそのまま大人になったような私は、奈良県吉野郡東吉野村という紀伊半島の山村で生まれ育った。2013年
現在、人口およそ2000人の過疎の村だ。私の実家近くに中央構造線が走っており、これより南の吉
野地域は谷が深く地形が急峻で、山の斜面に小さな集落が点々と分布している。21世紀に入り十数年
が経過したが、私の実家ではいまだに薪で風呂を焚いている。また、夏には日中は網戸をせず窓を開けっ放しにするので、家の中の隙間という隙間、例えばタン
スの引き手や物入れの引き戸、神棚などは狩り蜂の仲間、特にハエトリグモを狩るモンキジガバチに占領され泥の巣が多数作られるようになる。他にも川が小学
校指定水泳場になっていることや、鮎釣りの最中に目の前をカワネズミが泳いでいったので追いかけてタモ網ですくったこと、簡易水道の取水口にオオサンショ
ウオが詰まっていたこと、祖父がスリッパを履こうとしたら中にモモンガが入っていたこと…等々山村ならではの話には枚挙にいとまがない。
そんな環境で育った私はどういうわけか、幼い頃から虫や生き物に興味があり、通園・通学の道中で何かを捕まえては玄関や庭先のプラスチックケースに入れ
て
飼
育していた。幼稚園の頃には早くも「むしはかせ」と呼ばれ、人生で一度目の“博士号(むし)”を取得した。
吉野と言えばスギの植林ばかりで、植生はあまり面白く無いのだが、集落の周辺には小規模なクヌギ林が残っている。私の実家の隣にもクヌギ林があり、小さ
い頃
はよく“ゲンジ(クワガタのこと)”を採りに行っていた。近畿地方で広く見受けられる地方名だと思われるが、吉野ではクワガタの総称をゲンジ、コクワガタ
はヘイケ、ノコギリクワガタはスイギュウ、ミヤマクワガタはマクラと呼称していた。
小学校1年生の夏、私は一人でいつものクヌギ林にゲンジを採りに行っていた。一人っ子で同年代の子ど
もの数が少なかったこともあり、いつもの遊び相手は虫だった。そしていつもやるように、目星を付けたクヌギを蹴って回っていたら右手に激痛が走った。スズ
メバチに刺されたのだ。私はあまりの恐怖と痛みで泣きわめきながら家に帰った。当時はキンカンで対処するくらいしかなく、私の小さな右手はパンパンに腫れ
上がった。しばらくは指が曲がらず箸を持てなかったのでスプーンでご飯を食べていたのを憶えている。この後ずっと、高校生くらいまでハチに対する恐怖心は
なかなか抜けることはなかった。
小学校3年生くらいだったと思う、家の庭先で自転車に乗る練習をしていた。先に述べたように平地が無
く急な坂ばかりなので、自転車の練習も庭先くらいしかできる場所が無かった。何度もこけながら、練習を繰り返していると、前から大きなハチがこっちに向
かって飛んで来た。私は「アカン!刺される!逃げな!」と焦って自転車の向きを変えて必死で逃げようとしたら…なんと、自転車をこいでいるではないか。あ
の時、ハチに追いかけられなかったら、いまだに私は自転車に乗れていないかもしれない(そんなことはないと思うけど)。
前
回のリレーコラムを執筆された斉藤明子さんはじめ、私の知り合いの昆虫学者、生物学者は都会生まれの方が多い。そして、今でもお風呂を薪で焚いているとい
う方とは出会った事がない。育った環境と昆虫や生物に対する興味に相関があるのかどうか、私には分からない。そもそも人口比が大きく偏っているのだから、
一定の割合で“生きもの好き”が発生するのであれば、都会育ちの昆虫学者や生物学者が多いのは当たり前だ。
前回のコラムで触れられていた斉藤明子さんの疑問と同様、昆虫や生き物の面白くて興味深いことを述べるのは容易いのだが、では何故好きなのか、という
問
いにはいくら考えても答えることができない。これは本当に謎である。これが分かれば私自身についてもっと理解できるのかもしれない。そしてもっと昆虫や生
物
の面白さを子どもたちに伝えることができるかもしれない
|
中峰 空
三田市有馬富士自然学習センター 学習指導員
|
2013.03.20
No.10
博物館学芸員としておもうこと 斉 藤 明 子
昆虫DNA研究会からこのコラムに執筆依頼をいただいて、まとまったDNAの研究成果を書くのは難しいので、お引き受けするかどうか迷いましたが、コラム
ということなのでDNAから外れた事でもお許しいただけるかと思い、私自身のことを書かせていただくことにいたしました。子供の頃からどのように虫に関
わってきたか、ということと、今博物館の学芸員として働く中で日頃感じていることをお伝えしてみたいと思います。DNAの話題から離れてしまいますが、ど
うかお許し下さい。
博物館で昆虫担当の女性学芸員として働いているとなぜ昆虫が好きなのですか?と聞かれることがよくあります。たいていそれは謎です、とお答えしていま
す。両親も兄も特に生きものに興味があった訳でもなく、育ったのは東京の品川という、特に周りに虫がたくさん居る環境でもありませんでした。それでもなぜ
か物心ついた時から庭でセミ採りをしたり、サンショにアゲハチョウの幼虫を見つけると成長を楽しみに見守ったりしていました。飛んでいるオオスカシバをハ
チだと信じて、家のガラス戸の隙間から網を出して刺されないように採ろうとしたり、カに血を吸わせて水を張ったコップに入れておくと水面に卵を産む、と書
いてある本を見て、自分の太ももで血を吸わせたものの吸い逃げされてしまったことなどが、小学生の時の特に印象に残っている思い出です。その後、今に至る
まで虫を続けてこられたのは、たぶん家族の協力と放任があったからだと思います。私のために竹の棒で捕虫網の繋ぎ竿を作ってくれた祖父、モンシロチョウの
羽化の瞬間を一緒に見てくれた母と祖母、両親と旅行に出かけている間、飼っていたアリジゴクにエサ(アリ)をやってくれた祖母、という協力者がいました。
さらに、ザリガニ、ヤモリ、ヘビの抜け殻などまで、虫以外にも様々な物を家の中に持ち込んで死なせていったにもかかわらず、だれも私を叱ることのなかった
家族の“放任”のお陰で今があると、大人になってから気づきました。
私立の女子中学校に入学した後も一人で虫を続けていました。中学一年の夏休みの時、旅行社が企画した昆虫採集の旅に親子で参加し、初めて蝶の展翅という
ものを習ったのをきっかけに、蝶の採集にはまりました。「新しい昆虫採集」をバイブルとして美ヶ原や三城牧場などへ行き、採ったことの無いチョウを採って
展翅することに夢中になりました。オオムラサキを初めてネットインした時の手の震える感動を今でも良く覚えています。受験の時期になると、特に将来を深く
考えることもせず、とにかく昆虫学研究室のある大学に行きたいと思い、その後ますます虫にのめり込みました。30歳で幸運にも博物館に職を得て、現在まで
ずっと虫と関わることになりました。
博物館では子供の自由研究の相談をしばしば受けます。お父さんは仕事が忙しいのでしょうか、やってくるのは母親と子供のことが多いです。たいてい子供は
ほとんど口を開かず母親ばかりがしゃべります。そして子供に立派な自由研究をさせたいがどうすればよいか、という場合が多いです。その相談内容は、たとえ
ば、毎朝学校へ行く前に家の周りで蝶のセンサスを子供にさせたが、早起きが続かず一週間で挫折した、どうすればよいか、とか、コンテナに水を張ったビオ
トープを作ってどんな生きものが来るか観察していたが、何事も起こらないのでメダカを買ってきて放したけれどやっぱり他に何も起こらない、自然観察に何か
コツはあるのでしょうか、などなどです。夏休みが残りあと1週間という時期にやって来て、宿題の自由研究に何をやれば良いだろうか、という相談もありま
す。いちばんひどい出来事は、ある夏休み子ども相談会での事です。母親が子供の宿題と称して撮影した虫の名前を教えて欲しいと、コンパクトデジカメの液晶
画面で写真の虫を何十枚も同定させられていた時の事です。一緒に来ていた子供はすぐに飽きてしまい、うしろでサンダル蹴りを始め、何度目かに蹴り上げたサ
ンダルが隣で同定対応中だった別の人の標本箱の中に見事に落ちたのです。もちろん標本は壊れ、笑い事ではすまされない状況となりました。母親が写真の虫に
名前を付けることに夢中ですっかり子供そっちのけとなった結末です。こんな時は何のために仕事をしているのかわからなくなります。これらは極端な例です
が、博物館へ昆虫の相談に来られたお母さんには、もう少し楽しいことをやりましょう、と言って、ほとんど口を開く間の無かった子供に何が好きなの?と聞く
と、クワガタが好き、アリが面白そう、などと結構答えが返ってくるものです。
私の家族は前述のように私を“放任”していたので、立派な研究をやらせたいから博物館へ連れて行く、というようなこともありませんでしたが、それでも旅
行社の昆虫採集の企画に参加させてくれましたし、その後の家族旅行はいつも私の計画した採集旅行となりました。つまり私は、両親の“放任”の結果、面白い
と感じた虫についてもっと知りたくなり、普通の女の子が行きそうも無い昆虫学教室のある大学への入学も反対されずに今があるわけです。親は子供が興味を
持ったことを尊重して手助けをしてあげるのが良いと思っています。そうすれば中には昆虫に興味を持ち続け、さらにDNAを切り口に謎を解明したいと考える
若者が育ってくれるのではないか、そのきっかけとなればと毎年観察会や昆虫標本のつくり方教室などを続けています。自分で実際に子育てをしたことがないの
であまり説得力はなく、子育てはそんなにうまくいかない、とお叱りを受けるかも知れませんが、これからもしばらくは学芸員としてきっかけ作りを続けていこ
うと思っています。
|
斎藤 明子
千葉県立中央博物館 学芸員
|
2013.02.03
No.9
スペインの自然保護の一端を垣間見て 伊 藤 建 夫
写真は、イベリア半島(スペイン)の北部大西洋岸に沿って東西約300kmに渡りのびるカンタブリア山脈中のPicos de
Europa国立公園の東端の境界の峠にあるハイイログマの彫刻(とそのそばに立つ私)です。この彫刻はハイイログマの保護‧回復事業に取り組むカンタブ
リア県(ここは1州1県)により設置されたものであるとのことです。
私は、昨年(2012年)9月にスペインで開催された「プラスミド生物学国際会議」に参加し、研究成果の報告をしました。その折にピレネー山脈付近とカ
ンタブリア山脈付近を旅行し、チョウの採集と観察をする機会に恵まれました(山行きについては、かつて信州大学大学院でツキノワグマの生態研究をして博士
の学位を取り、現在エコツアー業を手掛けているパリ郊外在住のオランダ人に案内してもらいました)。上記のハイイログマの彫刻はその途中で遭遇したもので
す。今回の旅行は、ヨーロッパのハイイログマに関する調査などの目的で行ったのでは全くありませんでしたが、この機会に案内してくれたオランダ人の話やイ
ンターネットで調べたスペインのハイイログマの保護‧回復事業について紹介したいと思います。
ヨーロッパ西部のハイイログマは絶滅の危機に直面しており、フランスとスペインの国境に横たわるピレネー山脈では、1900年代初頭に最後の野生個体が
射殺され絶滅したとみなされました。その後、ヨーロッパの他地域からの雌雄個体が何度か移入されました。しかし、この地域固有の亜種とみなされる個体も生
き残っていたようですが、最後の個体が数年前に誤って射殺されてしまったとのことです(裁判沙汰になりましたが、射殺した人の「身を守るため」との言い分
が認められた)。また、この地域は羊や牛の牧畜が盛んで、夏期は放牧が行われているため、少なからぬ被害も出ており、ことは簡単ではないようです。
また、スペインのカンタブリア山脈のハイイログマについては、カンタブリア県に生息する哺乳動物の内では唯一ハイイログマが1989年以来絶滅危惧種
(endangered species)に指定され、保護‧回復事業が実施されています。
スペインのハイイログマの保護は、1973年にハイイログマを含む何種類かの「野生動物の保護」を目的とする法律が制定され、この法に基づき種々の規則
が作られたことから始まりました。その後、1989年には「自然地域と動植物相の保全」を目的とする法律が制定され、絶滅危惧種については回復のための計
画を策定することが求められました。そこで、この法律に基づいてまずハイイログマを含む全国版絶滅危惧種カタログが編纂されました。最近では、2007年
に「自然遺産と生物多様性」に関する法律により、特別な保護を必要とする野生生物種のリストと全国版絶滅危惧種カタログが編纂され、2008年制定の法律
により地域毎の絶滅危惧種カタログ編纂が求められ、カンタブリア県でもハイイログマを含む絶滅危惧種カタログが編纂されました。
カンタブリア県では、1989年の法律に基づいて直ちに「ハイイログマ回復計画」が策定されました。この計画では、カンタブリア山脈全体のハイイログマ
集団の遺伝的多様性と種としての生存率を高めるのに必要な東西の集団間の交流を促進することとなりました。そのため、まず東部のコアになる集団の保護、増
殖を図ることを目的とする事業が始まり現在に至っています(西部は別の州、県に属しています)。1989年の法律では、年度毎に事業報告と必要な計画変更
を牧畜•農業•漁業大臣(現、牧畜•漁業•地域開発大臣)に提出し承認を得ることになっています。
2011年度の報告書(65頁、カラー)には、当該年度の種々のモニタリングのデータとともにこれまでに集積されたデータベースに基づくまとめの図表
(地域別の目撃数、仔連れの雌グマの目撃数、家畜の被害頭数の推移などなど)や写真(調査、捕獲‧放獣の様子など)が多数掲載されています。最高30万
ユーロ(!)の罰金と定められているにもかかわらず密猟があり、またこの地域でも家畜や農産物に対する被害は少なくなく、被害に対する補償も大きな問題と
なっています。別の資料によれば、カンタブリア山脈全体のハイイログマの個体数は多くて140頭程度、カンタブリア県を中心とする東部個体群は30頭〜
40頭にすぎないとのことです。
ご承知のように、スペインは現在きわめて深刻な経済危機に陥っています。報告書ではこのことに言及して、人的、物的資源の効率的な運用(重複の回避な
ど)の必要性と迅速な被害補償のために保険制度を利用することなどが提言されています。それにしても経済危機の深刻なスペインの一地方公共団体でこれだけ
の保護‧回復事業が継続、実施されていることには驚かされました。カンタブリア県はサンタデール市という大西洋岸のリゾート地(王族、貴族の別荘地が大西
洋を望む丘に立ち並び、イギリスとの間に大型船による定期フェリー航路がある)がある小さな地域であり、比較的経済状況が「まし」であるという背景もある
かも知れません。さらに、中世以後に一度は森林を徹底的とも言えるほどまでに破壊したヨーロッパ(特に、西ヨーロッパ)では、(罪滅ぼし的に)環境保全、
自然保護が国、地方公共団体レベルでも活発に行われているという背景もありそうです。
日本の北海道のヒグマや東北から中部にかけてのツキノワグマについては、少なくとも当面は絶滅の危機にはなく、自然の食物連鎖の頂点に立つクマと人との
共存のために保護・管理が細々ながら行政と民間団体などの協力のもとに進められつつあります。しかし、九州ではツキノワグマの確かな目撃例が絶えて久し
く、四国でも絶滅の危機にあります。これらの地域では保護‧回復計画の策定を目指して早急に継続的な個体数調査と保護活動を実施する必要があると思われま
す。
ところで、チョウの採集に関しては、フランスでは国立公園、自然保護公園などの外では規制がありませんが、スペインでは法律によりいかなる種のチョウも
誰であっても(スペイン人であっても)採集することが何故か禁止されています。スペイン人の友人(生物学の研究者)は、当初「No one
cares.」と言って、無視したらどうかとの意見でした。しかし、無用のトラブルを避けるために、彼に手伝ってもらって今回の旅行で立ち寄る予定の複数
の県に個別にチョウの採集許可申請を前もって行いました。担当者の好意的な対応もあって、首尾よく3県から許可を得ることが出来ました。ピレネーやカンタ
ブリアで出会った旅行者、ハイカー、羊飼い、林道管理者の人たちも概して好意的で、何人かの人たちは私のユーラシアの(高山)チョウの分子系統地理の研究
の説明に興味を示してくれました。多くの人たちが無関心であったのも事実でしたが……..。欧米ではフィールドでチョウを調査‧採集していて同業者に出会
うことはまずありませんが、今回もそうでした。時期的な関係からスペインの山で子供たちに出会うこともなかったのは少し残念に思いました。「チョウを捕る
のは悪いことだ」というような教育が行われていなければよいと思います。
|
伊藤 建夫
信州大学
理学部生物科学科
生体生物学
特任教授
|
2012.07.02
No.8
昆虫の魅力を伝える地道な努力が必要である。 蘇 智 慧
生物の多様化の尺度の一つは種数である。これまでに記載されている動物の種数を見ると、昆虫はおよそ7割を占めている。だから、昆虫は地球上もっとも多様
化した動物群であり、地球は昆虫の惑星とも言われている。同じ種の昆虫でも、地域によって形が違ったり、色彩が異なったりして異を見せることもよくある。
このような多種多様さを求めて昆虫採集に夢中になる昆虫少年が現れる。しかし、昆虫少年の減少は確かに進んでいる。大澤先生、八木さんと柏原さんのコラム
でもそれを嘆いており、その原因と改善策も述べられている。昆虫を研究対象としている人間にとっては寂しい限りである。しかし、それは時代の流れでもあ
り、そう簡単にその流れを変えることは難しいと思う。でも、昆虫少年が減少していても、昆虫の魅力は減っているわけではない。陸上のあらゆる生息環境に適
応し、様々な形態と機能の多様化を遂げているのは昆虫であり、生物の進化・多様化に関しては昆虫抜きでは語ることはできない。地道に昆虫の魅力を世の中に
伝え、子どもや若者を昆虫学の研究に引きつけることが大事であると思う。
私自身が最初に感じた昆虫の魅力は変態と休眠である。芋虫と毛虫が美しい蝶々になるのは何とも神秘的であり、体の代謝を最小限に抑え、食べず飲まずに悪
環境を乗り越すことは如何にも賢い生き方と映る。私が大学で昆虫休眠機構の研究に携わっていたのも兼ねてそう言う昆虫の魅力を感じていたからであろう。オ
サムシの研究を始めると、昆虫の形態の多様性に強く惹かれるようになり、昆虫採集を始めた。子どもの頃、虫取りをしたことはあるものの、いわゆる昆虫少年
には遠く及ばず、オサムシはもちろん知らなかった。大学での研究はもっぱら組織、細胞、DNAといったミクロの研究で、生物を生きた個体としてじっくり眺
めたこともなかった。しかし、オサムシの研究は、実験作業そのものはミクロの世界ではあるものの、結果と考察は個体、集団、種、或いはそれ以上の分類群が
対象となり、生きもの全体を見るようになり、生物進化の研究に足を踏み入れた。オサムシの研究を始めた当時の私は、系統樹の見方さえ知らずに試行錯誤を重
ねながら、オサムシの系統進化の研究を大澤省三先生のもとで進めていたが、系統樹の枝分かれを見ながら、確かに形態が似ているものは系統樹上に近い関係に
あり、逆は遠くなることが分かり、DNA配列の情報に生物の進化の歴史が刻まれていることを始めて実感した時は本当に感動した。しかし、全部はそうとは限
らず、明らかに形が似ているのに、系統樹上では遠い関係になり、逆に明白に異なる形をしているのに、系統樹上では姉妹関係になる、そういう不思議な系統樹
を得る場合も多々ある。何故だろう。種内の系統樹を描くと、地域的に近いものが系統樹上でまとまることは一般的である。地域的系統が何故生じたのか、また
その地域系統間の境界がどこにあるのか、そういう問いも出てくる。要するに、系統樹を作れば作るほど疑問も多く現れる。こういった疑問を解かすには更なる
解析が必要であり、当然材料の追加収集も必要となる。このように私の昆虫採集は分子系統の研究から始まったのである。採集は苦労も伴うが、苦労した過程を
経て必要なものが得られたときの満足感は何より楽しいものである。オサムシの研究を始めて以来、毎年フィールドに出かけて、そのような採集の楽しさを味
わっている。昆虫採集を重ねることによって、新たな興味深い現象が見つかり、研究の更なる発展へとつながる。ここで言いたいのは、昆虫採集を通して昆虫の
魅力を徐々に感じ取ることもあれば、何かのきっかけで昆虫の魅力を知ってから昆虫採集を始め、昆虫研究へと発展することもあるとのことである。子供たちが
自然に虫に接する機会が益々少なくなる、今の時代では昆虫学研究者の地道な努力が益々重要になってくる。
JT生命誌研究館(BRH)では、毎年の夏休み中にサマースクールというイベントを行っている。私の研究室では、身近な昆虫を材料にして、2日間をかけ
てDNA抽出、PCRによる目的遺伝子の増幅、塩基配列決定、系統樹作成と結果発表という一連の作業を参加者に体験してもらっている。「見た目に近いもの
が系統樹上にも近い」、逆に「見た目に騙されてはいけない」という趣旨のもとで、昆虫種の選定を行い、DNAに生きもの進化の歴史が刻まれていることを理
解すると同時に、昆虫が如何に不思議で、魅力のある生きものであることを少しでも感じ取ってもらうのが目的である。参加者には意外にも中学生が多く、中に
は昆虫少年もたまに現れる。サマースクールを参加したあと、昆虫に興味をもち、昆虫採集を始めた子どももいる。将来、参加者の中から昆虫学研究者が現れて
くれればそれより嬉しいことはない。
BRHではもう一つイベントを年3回行っている。それは実験室見学ツアーである。中にはツルグレン装置を使って土壌動物を観察するプログラムがあり、子
供たちには常に人気を得ている。里山の落葉下の土を採ってきて電球を使い上から熱をかけて土中の小さい動物を落として顕微鏡で観察する。世の中での一般的
常識(?)では嫌われがちのムカデ類やヤスデ類などに対しても、子供たちは喜んで真剣に見ている様子を見ると、潜在的な昆虫少年(少女)は昔も今も変わら
ず存在していると感じる。虫に接する機会さえあれば、こういった潜在的な昆虫少年(少女)はきっと本物の昆虫少年(少女)になっていくと信じている。そう
いった機会が世の中に増えれば、やあ、我々がその機会を増やす努力をしなければならないのだろう。そうすれば昆虫少年の時代がまた戻ってくるのも夢ではな
いかもしれません。そう願いたい。
|
蘇 智慧
JT生命誌研究館
系統進化研究室 主任研究員
|
2012.04.09
No.7
非モデル昆虫研究の新時代到来 新 美 輝 幸
東城さんからリレーコラムのバトンが渡された。東城さんとの最初の出会いは、2002年葉山の生産性国際交流センターで行われた昆虫ワークショップのと
きだったと思う。印象的だったのは、東城さんが用いた研究材料の斬新さにあり、それまで見たことのない特徴を備えたカゲロウの一種は、翅の起源に迫るため
の格好の材料であった。その後も様々な機会でお聞きする東城さんの研究グループが用いる研究材料のユニークさには、驚きが絶えない。採集や飼育は困難なの
かもしれないが、誰も扱ったことのない昆虫を研究できることは素晴らしいと思う。膨大な種数を誇る昆虫を扱う研究の醍醐味は、正に多様性にあると思う。ど
の昆虫に着目するのかが研究上重要な鍵となる。例えば、系統上重要な位置にある昆虫やモデル昆虫では明らかにすることのできない興味深い現象を持つ昆虫な
どである。これまでは、たとえ興味深い現象が存在する昆虫であっても、DNAの言葉で理解することは困難な場合があったが、この状況は急速にかわりつつあ
る。
1987
年に発表されたPCR法の普及により、どの生物からも容易に遺伝子が相同性クローニングできるようになって久しい。問題は、目的とする現象を解く鍵を握る
遺伝子をどうやって見つけるかにある。昆虫のゲノム中に存在する遺伝子数は、1万数千個程度である。この有限な遺伝子の中から、目的の遺伝子を見つけるた
めのアプローチは様々であるが、どの方法を用いて見つけ出すかは研究者の腕の見せ所である。最近では、コンピューター上でのクローニングも可能になった。
全ゲノム情報の解読を行うプロジェクトも進行しているからだ。2000年のキイロショウジョウバエのゲノム解読を皮切りに、様々な昆虫種でゲノム解読の報
告が続々と発表されるようになってきた。この状況をさらに加速させるテクノロジーが登場した。次世代シーケンサーである。1000ドルでヒトの個人ゲノム
を解読する時代が迫りつつあるなか、次世代シーケンサーの普及に伴い、怒涛のごとく各種昆虫のゲノム解析が進行している。配列のホモロジーに基づくクロー
ニングの苦労を考えると、たった1000ドルで昆虫のゲノムの概要が解読できるとは嬉しい限りである。特筆すべきは、i5k (5,000
Insect Genome
Project)とよばれる5,000種の昆虫のゲノムをたった5年間で解読するプロジェクトである。現時点ではどこまで現実味があるかは不明であるが、
新しい原理に基づく次々世代シーケンサーの開発が進んでいる現状を鑑みると、このプロジェクトが実現するのは遠い将来ではなさそうだ。
現在、モデル昆虫の代表はいうまでもなくキイロショウジョウバエである。モーガンによる1910年の白眼変異体の発見以来100年以上の歴史を持つショウ
ジョウバエを扱う研究は、昆虫のモデルというより生命の基本原理を解き明かすためのモデルとして発展してきた。モデル生物の中のモデルとして不動の座を保
ち続ける理由は多々あるが、遺伝子の機能解析システムの豊富さは圧巻だ。p因子による遺伝子組換え体の作出は1982年に報告されて以来、様々な改良や新
技術が導入され現在に至っている。一方、非モデル昆虫の遺伝子組み換え体の作出はpiggyBacベクターの開発により大きく進展した。
1998年のチチュウカイミバエでの成功に続き、そのあと双翅目、鱗翅目、鞘翅目、膜翅目、直翅目の各種昆虫において遺伝子組換え体の作出が報告され、非
モデル昆虫においても遺伝子機能解析技術が徐々に進展している。
遺伝子の機能解析における革命は、1998年線虫で発見されたRNA干渉(RNAi)によってもたらされたといっても過言ではない。遺伝子組換え体の作出
が困難な昆虫であっても、RNAi法により容易に遺伝子の機能阻害が可能になった。この方法は、完全変態昆虫や不完全変態昆虫だけでなく無変態昆虫のシミ
においても有効性が示され、瞬く間に普及した。しかしながら、RNAi法が万能ではないのは残念である。二本鎖RNAを体腔に注射したも各種組織の細胞内
に取り込まれないためRNAiが効かない場合が昆虫種によって存在する。RNAiは本来真核生物の生存に必須の生体防御機構であるため、どんな昆虫でも細
胞内に二本鎖RNAが入ってしまえばRNAiは生じる。現に、細胞膜が形成される以前の多核性胞胚期の初期胚に二本鎖RNAを注射すれば、RNAiによる
遺伝子機能阻害がどんな昆虫でも生じると考えられる。今のところ、昆虫種に依存した二本鎖RNAの細胞内への取り込みの差異が生じるメカニズムは不明であ
る。この原因が解明されれば、近い将来どの昆虫でも遺伝子の機能阻害が用意になる時代がくるかもしれない。
ごく最近の注目すべきテクノロジーはTALEN(Transcription Activator−Like Effector Nuclease)
と呼ばれる人工ヌクレアーゼによる配列特異的な遺伝子ターゲティング法である。この成功例は、フタホシコオロギとカイコで2012年の学会で報告された。
今後、この方法により非モデル昆虫の遺伝子機能解析が大いに進展することが期待される。
新しいテクノロジーの開発により方法論的な障壁が打ち砕かれ、ブレークスルーと
なる研究への発展が導かれてきた。モデル昆虫と非モデル昆虫をわける技術的な垣根はますます低くなっているように感ずる。今後の昆虫DNA研究の発展が楽
しみである。
|
新美 輝幸
名古屋大学大学院生命農学研究科 資源生物科学科
助教
|
2011.11.22
No.6
比較発生学から分子系統地理の世界へ 東 城 幸 治
「東日本大震災」の話題(永幡さん)から「遺伝子時代の標本管理術」
(倉西さん)へ、そして私へとコラムがリレーされてきた。私自身、津波被害により地域個体群絶滅の可能性が高いとされる、とある湧水棲昆虫の遺伝子解析に
関わることとなった。
こ
の個体群は、福島第一原子力発電所付近のため、現状把握すら不可能なのであるが、震災前に標本が確保されていたために、このような遺伝子解析の機会が得ら
れたのである。近隣の個体群からは地理的にかなり隔離されており、福島県内ではただ一つの個体群であったこと、かつ、津波の影響を受けるほどに海岸に近い
など、かなり特異な個体群でもあったらしい。今回の震災と津波が我々の想定を超えるものであったとしても、千年・数千年に一度くらいのスパンで度々起こっ
てきたような自然現象であるには違いない。そうであるならば、過去にも、津波による撹乱に晒されながらも存続してきた個体群なのでは? という意見もでて
こよう。しかし今回の場合、人間活動の影響による個体群サイズの縮小を強いられた上に、大規模撹乱を受けているので、これまでのものとは意味が違ってくる
のだろう。
おそらく東北地方の太平洋沿岸には、同じような境遇にある昆虫種群が他にもある
ものと思われる。このような状況下において、「この場所に、この昆虫が活き
ていた証」として標本を後世に残すことや、遺伝子情報のように標本が包含する情報も併せて、きちんとアーカイブしていくことは重要であろう。微力ながら
も、このような形での貢献ができればと考えている。
昆虫類を含むあらゆる生物種群の遺伝子情報は、GenBankお
よび共同活動されているデータベースに集積されているため、これらに登録されたデータに関しては万人が利用可能となっている。私も、日本には生息していな
いような昆虫種群の配列データなどを重宝して利用させていただいている。手持ちのデータにGenBankか
ら取得したデータを加えて系統解析することが多いのだが、時々、不可解な結果が導きだされることがある。この一因には、登録された遺伝情報と、その遺伝情
報のもち主であったとして登録されている種名の対応が一致していないためのことも多いようである。尤も、目や科レベルといった高次系統解析に主眼をおいて
いる研究者にとっては、種レベルの同定精度が研究結果を左右することにはならないために、それほど強い関心にはならないであろうし、できる限り識別の容易
な種を対象とするような観点からのタクソン・サンプリングがなされてはいるだろう。
しかしながら、私が対象としている水生昆虫類では、先の倉西さんのコラムで紹介
された「ざざむし」の例のように、いわゆる「普通種」と称されているような
種においてさえも隠蔽種の存在が明らかとなったりしているのが現状である。甲虫類や蝶類と違って、マイナーな昆虫を対象としているが故の意見なのかもしれ
ないが、倉西さんが述べているような「遺伝子抽出に用いられた標本は、いつでも分類学的再検討が可能な状態で保存されるべきである」ことを痛感している。
現状でさえ収蔵スペース問題がつきまとう日本の博物館事情を考えると、現実的には難しいことなのかも知れないが、種分化を取り扱った研究や記載に関連した
研究において、遺伝子情報が用いられた場合などにおいては特に、著者の責務として遺伝子抽出に用いた標本類を然るべき機関に収め、標本の所在を論文内にも
明記して欲しいものである。そうすることが難しい場合でも、せめて、採集日時や産地情報が論文内に詳しく記されていれば再検討がなされる際には役に立つの
ではないだろうか。
ここまで、震災のことや遺伝子解析に供された標本の扱いに関する私見
を述べてきたが、後半では、少し自身の昆虫DNA研究について紹介させていただきたい。
私の昆虫研究のはじまりは、「比較発生学」と称される分野で、昆虫の体づくりを
通して、多様な昆虫形態の基本プランを明らかにしたい、というところにあっ
た。なかでも、翅をもつ最も原始的な昆虫類であるカゲロウ類に着目し、その胚発生をひたすら形態学的に、そして組織学的に追究してきた。学位取得までは
DNAとは無縁に過ごしてきたものの、発生遺伝学的研究が、ショウジョウバエをはじめ、カイコガやコクヌストモドキなどといったモデル昆虫類から、系統進
化の鍵を
握るキータクサへと徐々に拡がりはじめた頃でもあったため、有翅昆虫類の進化の鍵を握るカゲロウ類でも発生遺伝学的研究に関心をもちはじめるようになっ
た。しかし、この手の研究手法には全くの素人であったため、様々な方々との共同研究を通じて、カゲロウ類における発生遺伝学的な研究にも足を突っ込むこと
となった。
そのような中、7年半ほど前に、現在の信州大学理学部生物科学科に着任し
た。
一から研究室を立ち上げなければならない状況にあったが、遺伝子解析に関しては、かなりの部分を学科共通機器類を利用することでカバーできたため、サーマ
ルサイクラーや遠心機、冷蔵・冷凍庫やその他の小物類さえ揃えてしまえば直ぐに研究をスタートで
きる利点があった。加えて、豊かな自然が周囲八方に存在する信州の地の利は何よりもありがたく、これまでは全く経験のなかった分子系統地理学的な研究にも
新規着手することを即決した。さらに幸運だったのは、大学内に「山岳科学総合研究所」という組織が立ち上がり、この研究所の兼任にしていただけたことであ
る。日本アルプス地域を中心に、山岳科学に関係する様々な情報が集積し、フィールドでの調査・研究にも便宜を図っていただけるという、この上ない環境が期
せずして整ったのである。
第一に着手したのは、第四紀前半(約180
-100万年前)の槍穂高連峰の山岳形成(隆起)によって往来が困難になったと思われる原始的カゲロウ種群に関する研究であった。実際に遺伝子解析をして
みたとこ
ろ、見事に槍穂高連峰の東西(松本側と飛騨側)で遺伝的分化が生じていることが明らかとなった。そして、推定された両山麓の個体群間での分岐年代も地史と
よく合致するも
のであった。また、この山塊では、焼岳火山群の活発化に伴い、河川の塞止めと流路変更が頻繁に生じてきたともされるが、このような「河川争奪」現象に関し
ても、遺伝子解析の結果は興味深い関連性を示してくれた。
このような展開をきっかけに、山岳域における分散力の弱い昆虫種群に着目するこ
とは踏襲しながらも、解析対象とする昆虫群を拡げてきた。最近では、対象の
地域も拡げて、南西諸島も含めた日本列島広域、さらには朝鮮半島や大陸などにも足を運ぶようになってきた。このような研究をはじめた当初、現在の分布が似
通ったものであれば、同じような進化史を辿ってきたのだろうと考えていたのだが、実際に詳しく解析をしてみると、そう単純なことばかりではないことがよく
分かってきた。ひとえに「日本列島の昆虫の起源や昆虫相の成立プロセス」といっても、実に多様なパターンがあるものだと、驚き、楽しみ、そして不思議さを
常に感じながら過ごしている。
|
東城 幸治
信州大学理学部生物学科
助教
(兼任 信州大学山岳科学総合研究所)
|
2011.10.24
No.5
遺伝子時代の標本管理術 倉 西 良 一
『ざ
ざむし』とよばれる昆虫がいる。『ざざむし』は、ざぁざぁと流れる川の瀬に棲む水生昆虫(幼虫)の総称で、信州で『ざざむし』は有名な食材である。『ざざ
むしの佃煮』に使われ人々にもなじみの深いヒゲナガカワトビケラの遺伝子を各地で採集して調べてみると、これまでヒゲナガカワトビケラと同定されていたも
のの中に複数の種が混じっていたことが明らかとなった。今回見つかったヒゲナガカワトビケラの近縁種は、ヒゲナガカワトビケラがあまりに普通種な故に見逃
されていたのかもしれない。
遺伝子で識別された成虫や幼虫から、種の認識に必要な外部形態の情報が集まり、
日本の河川生態系を代表するヒゲナガカワトビケラの近縁種が新しいタクサと
して追加されようとしている。もし遺伝子を解析したのがどの個体か分からないような状態、すなわち標本の整理が充分にされていなかったならば、この研究は
完結できなかったにちがいない。遺伝子解析された個体が特定できて、それを形態解析で裏打して新しいタクサが認識できたのである。
遺伝子情報(塩基配列)は、分類群名(生物の学名)と結びつけられている。もし
遺伝子情報を分析した生物の同定に誤りがあり、分析した生物がどの個体か特
定できず検証不可能な場合、その情報を用いた結果の解釈に大きな影響が出るのは自明の理である。その意味で遺伝子解析証拠標本は、分類学における『タイプ
標本』すなわち種の定義に使われた標本に準ずる扱いを受けるべきである。
遺伝子解析された昆虫標本は、どのように保存管理されているであろうか?一般に
遺伝子解析に使われる標本は、アルコール液浸標本が多くさまざまな形状の瓶
に入っていることが多い。それゆえ(配架や整理)管理が大変煩雑である。標本の保存について研究の現場は大変苦労をしている。苦労の最大の原因は収納ス
ペースが充分確保されないことによるものだ。(乾燥標本は、高度に規格化された『ドイツ箱』とよばれる堅牢な木製の箱に収納され液浸標本に較べて管理がし
やすい)。ラベルに書き込む情報はもとより、ラベルの材質や記入に使うインクなどの選択も維持管理には重要な要素である。
遺伝子抽出に使った標本はい
つでも分類学的再検討が可能な状態で保存される必要がある。標本の維持管理は、決して無料でできるようなものではなく人件費も
含めた経費が必要である。昆虫の乾燥標本の場合、博物館が人から標本を預かり、標本箱に配列・データベースへの登録・公開にかかる経費が消耗品と人件費を
含めて1個体あたり約5ドルとしている文献があったが、液浸の遺伝子解析証拠標本の場合必要な経費は1個体あたり1500円を下らないであろう。これは私
が研究している水生昆虫の場合であり、すべての昆虫でこれだけかかると言うのではない。結構経費がかかるものであるが生物の採集や同定にかかった時間や労
力、遺伝子解析にかかっ
た経費、将来の検証可能性を担保するということも合わせれば納得のできない金額ではない。
最先端のことばかりに目がいっていると、思わ
ぬ所に落とし穴が潜んでいる。いくら苦労をして素晴しい研究をしても、いざ証拠標本がないと信用されないから
である。遺伝子解析証拠標本の問題は、自然誌文化が未成熟で博物館を来館者数でしか評価できないような現状があるから心配になるのである。標本を扱う理論
や技術は確かに古典的なものではあるが、最先端のおもしろい研究もこのような基礎の上に成り立っていることをこの機会に思い起こしていただければ幸いであ
る。
|
倉西 良一
千葉県立中央博物館
上席研究員
|
2011.9.22
No.4
東日本大震災から学ぶこと 永 幡 嘉 之
2011
年8月7日、太平洋沿岸を走り回る合間を縫って、山形県内の山で風穴を探し歩いていた。30度を超える暑い日で、エゾゼミの大合唱のスギ林をくぐりぬけ、
もう数十年も通る人がないままに失われた道を何度も迷いながら、ようやく擂鉢状の窪地をみつけて下ってみた。苔むした石の間から吹き出す冷気に、汗が急に
冷やされて心地よい。風穴には、崩れてはいるものの見事な石組みが残っていた。かつて、ここは近郷一円のカイコの卵の貯蔵庫だった。冷たい石の上に寝転び
ながら、スギの梢を流れる雲の行方を追っていた。
この夏は、古くからの養蚕を続ける
農家に頼みこんで、数日間隔で、仕事の様子を撮影させていただいていた。94歳と70歳の
二人の男手による炎天下のクワ刈り、蚕が葉を食べる音。山形県南部では、すでに養蚕農家はその1軒だけになっていた。その家こそが、かつて風穴に遊びに
行って石室の底を少し掘り下げ、氷
の塊を舐めて遊んだという話を聞かせていただいた。冷気の噴き出し口では一年中気温が安定し、カイコの羽化時期を調節できる。風穴の石室は、人間が気温を
管理できなかった時代の、生活の知恵の結晶でもあった。
冷蔵庫というものが登場してから、
風穴を訪(おとな)う人もなくなり、半世紀の間に石組は崩れかけて、クロヅルやヤマブドウ
の蔓に覆われていた。
3月11日の東日本
大震災のあと、自然史資料の被害はしばしば話題に上った。陸前高田の博物館の標本復旧に多くの人々が関わったことは様々な媒体で報じられたため、人々の記
憶に新しいだろう。
DNA研究の領域では、災害時の資料保管はどうだろうか。低温で保管せ
ねばならないものが大部分だ。大規模停電という問題が生じると、冷蔵施設が機能しなくなる。膨大な冷凍資料を、全国各地に散らばる風穴に担ぎ上げ、石室を
深くして貯蔵するわけにはいかない。
まずは、病院や大学等のように、非常用電源への切り替えが可能な安定した保管施設の確保が前提になる。シーケンサーをはじめとした実験施設や試薬は、他へ
の提供が必要になる場面があるかもしれない。業務用冷凍庫があったとしても、非常用電源が心もとない施設では、夏ならば数日の停電でも溶解してしまう。さ
らに、大規模な火災などが生じやすい工業地帯、あるいは燃料貯蔵施設や原子力施設の周囲なども、災害時に何が起こりうるかということを念頭に置いておかね
ばならないだろう。
震
災直後に、しばらく身動きの取れなかった小笠原から戻るとき、いつもは周囲の仕事の邪魔しかしていない私が、居候先の法医学教室に貢献できる場面はないも
のかと、ない知恵を絞ろうとした。輸送がすべて途絶えたなかで、DNA解析の試薬を東京から山形に運ぶことはできないか。DNA解析による個人識別の需要
が急増しそうだとの思いもあった。今思えば、本当に必要なものは自衛隊の緊急輸送車ですぐに搬送されるのだが、当時はそこまで頭が回らなかった。しかし、
試薬の運搬さえも叶わなかった。冷凍での宅配便が稼働していない状態で、東京中のドライアイスは被災地の安置所に送られ、民間に回せるものはなかったから
だ。結局、私は教室の上司の方々に心配をかけただけで、普段役に立たない人間は非常時にも役に立たない、ということを証明しただけに終わった。
こ
うした場面での危機管理が、しっかりとできていることをつくづく感心したのが新聞社だった。工場の大きな輪転機は、電圧の足りない非常用電源では動かず、
山形新聞社では秋田・新潟・福島などの各社と連絡をとり、結果的に新潟で印刷して急送し、翌朝の配達に間に合わせたという。停電が続いてテレビ・パソコン
の使用が限られる状態では、8面の臨時版とはいえ、新聞が人々に運んだ大きな写真の情報は重かった。
いかに知恵を駆使して翌日の朝刊を間に合わせたか、という話を、山形市
内の飲み屋で山形新聞社のデスクから聞きながらビールのジョッキを傾けていたのは、4月7日の深夜のことだった。その直後、最大の余震が起こって店のなかも真っ
暗になり、相当に飲んだはずのデスクの方々も「停電で輪転機が止まる。時間が遅いから、前回(3月11日)よりもまずいぞ!」と言葉を交わしながら本社へと急がれた。そして
翌朝の8時30分、新潟で印刷された4面だけの朝刊
が山形県内の各戸に届けられたのだ。
この震災のなかにあって、事前の万全な対策によって欠刊を回避した新聞
社は、危機管理が最も進んでいた組織に違いないのだが、報道機関だけにニュースにも記事にも出ず、意外なほど人々に知られていない。
被災者は皆、置かれた状況から、結果として強靭な精神力で乗り切ることを強いられ、失われた標本のことを聞いても表情を崩さずに「災害ですから」と言われ
る。笑顔を絶やさず、そして支援に対する感謝しか口にしない。彼らの口から本音が出ることは、当分はないだろう。だからこそ、「支援した」
「感謝された」という、外部の視線からの美談で終わってしまいがちになる。
ところで、救援の声が上がった公的博物館の標本には対策がとられたが、同時に少な
からぬ個人所蔵の化石や植物の標本、写真、ノート、文献が、家とともに海に
消えたことに誰も触れず、博物館業界の組織的支援だけが取り上げられることに、もどかしさを感じることも確かだ。日本の自然史研究は、ほぼ個人資料の蓄積
によって支えられてきたことは論を待たない。博物館の標本も然り。今回のような非常時に、そうした民間の個人資料は、残念ながら完全に蚊帳の外に置かれて
いた。どのような被害があったのかという情報の一元化さえなされていないことは、今の日本の社会の大きな落とし穴でもある。
例えば、昆虫DNA研究会で、冷凍されたDNA資料の保管状況と、災害時に想定さ
れる危険性について情報をとりまとめ、それぞれの施設内での対策に結びつけ
てはどうだろう。課題の共有なくしては、今後も同じようなことが繰り返される。もちろん、博物館の支援も多くの努力によって支えられていることは、一端に
関わったものとしてよく承知している。ただ、それだけを美談に終わらせてしまっては、標本やノートとともに消えた在野の研究者の情熱が、いつまでも浮かばれないのだ。
|
永幡 嘉之
自然写真家
|
2011.8.10
No.3
首都圏をナガサキアゲハが舞う時代に 柏 原 精 一
身近な生き物を採集して名前を調べ、それらをじっくり観察することから
生物学は始まる−−われわれ戦後のベビーブーマー世代は、そうしたきわめて真っ当な科学教育を受けて育った。昆虫採集が奨励され、集めた標本をそのまま持
参すれば、それが夏休みの宿題になる。自由研究のテーマに悩まされることなどない、昆虫少年にはありがたい時代。多少勉強のできる子より、珍しい虫を採っ
てくるやつの方が、子供うちでの序列はずっと高かった。いつから世の中は変わってしまったのか……。
昆虫少年の数は現在の比ではなく、チョウを中心に、東と西、あるいは南と北の子が
文通を通じて行う標本の交換がはやった。雑誌「子供の科学」だったろうか、希望の種と提供できる種を列記して文通相手を求めるコーナーもあった。
もちろん私も、そのネットワークに加わった。関東、関西圏の子が多かっ
たから、当時、南国・熊本市に住んでいた私にはかなり有利だった。提供種の中にはミカドアゲハ、クロコムラサキ、サツマシジミなど一工夫しないと得られな
いものもあったが、「主力商品」のナガサキアゲハやツマグロヒョウモンは自宅の庭でいくらでも採れた。それが九州では絶対見られないギフチョウやキベリタ
テハに化けて戻ってくるのだから、これはもう止められない。中学を卒業するころの標本箱には、日本の土着種とされていたチョウ200種の8割
以上が並ぶようになっていた。
それから約半世紀、今の私は九州からは千`も離れた横浜市に居を構えている。10
年ほど前から、庭先にナガサキアゲハやツマグロヒョウモンが姿を見せ始
め、大陸からの人為的帰化が濃厚なアカボシゴマダラと並んで、あっという間に見かける頻度の最も高いチョウになった。今や、私の周りのチョウ環境は九州に
暮らした少年時代そのもの、ここに住みついたころには想像もつかなかった風景である。数十年をかけてはるばると訪ねてきてくれた元カノという気分がないで
もないが、やはり違和感の方がはるかに強い。標本の物々交換という美風が今日まで続いていたとしても、現在の九州の子たちには私のような錬金術が使えなく
なっていることは、少なくとも確かである。
チョウに限らずさまざまな昆虫の北上が話題にのぼる。原因についてはま
だ議論が残るにしても、日本列島の温暖化傾向はもはや動かし難い事実のように私には見える。ナガサキアゲハの幼虫が食べるミカンやカラタチ、ツマグロヒョ
ウモンの幼虫が好むパンジーは、関東地方の市街地にもいくらでもある。彼らの分布拡大を阻んでいたものが冬の寒さだったのであれば、気温が上がれば北進す
るのは当然のなりゆきだということである。
一見、周囲の自然が賑やかになったようにみえるが、たぶんそうではな
い。南方系の生物がこれだけの速度で進出しているということは、北方系の生物は同じだけのペースで後退しているということだ。豊かさは、ただ単に、新たに
いるようになったものは目につきやすいが、いなくなったものは気づきにくいという人間心理の落とし穴に過ぎない。事実、過去の多くの絶滅が、ほとんど誰に
も気づかれないまま起きてきた。注意深く監視していないと、とんでもない事態になってしまうかねない予感がする。
もっとも、単純な図式には当てはまらない、温暖化の反動とも思える現象
もいくつかある。たとえば、ウスバシロチョウの勢力拡大。本来は寒冷地のチョウであるはずが、気温上昇とともに分布を南に広げたり、低地に下りたり、他の
チョウとは逆行している。気候変化によるものではなく、幼虫の食草ムラサキケマンが生える荒地が広がったことが原因だとする説が有力視されているようだ
が、広い範囲に同じような傾向があることからすると、それだけが原因とも思えない。渓谷のチョウとして有名なスギタニルリシジミの分布は、なぜか非渓谷地
域に広がり始めている。こちらは、本来の食樹とされるトチノキの非分布域へも進出していて、食性の転換を伴っているのは明らかだ。
温暖化が人為のもたらしたものであるなら、それはけっして好ましいもの
とはいえないのだろうが、それを急激に止める手だてがわれら人類にないことも確かである。生物の分布が一気に書き換えられるような気候変動をわが身で実感
できるような機会がそうたくさんあるとは思えない。DNAそのものの変異や、エピジェネティックな変化など分子レベルのチェンジ
もすでに始まっているかもしれず、いっそこれを環境と生物の相互作用を知るための壮大な実験ととらえてはどうなのだろう。動態としての生物の進化や多様性
に迫るチャンスが到来したのだ、という発想もあっていいのだと思う。
|
柏原 精一
サイエンスライター
|
2011.6.20
No.2
「採集から実験へ」 新しい昆虫少年の育てかた 八 木 孝 司
私は昭和28年生
まれで、物心付
い
た時には高度経済成長が始まっており、京都市内の小学校周辺にあった空き地、水田、林が年々住宅地に変わって行くのを目の当たりにした。それでも小学生の
夏休みは毎朝6時から虫取りで、金閣寺前の水銀灯に前夜飛来したカブトムシを誰よりも早く取りに行く競争をした。小学校の5、6年はチョウに興味が出て、
京都市内のチョウを全種類集めてやろうと小学生なりに思っていた。しかし中学生になると上には上がいることを知り、彼の標本箱に野外で見たこともないウス
バシロチョウが入っているのを見て驚いた。親や兄に採集に連れていってもらうのはずるいやつだと思った。中学校と同じ敷地にあった同志社大学の昆虫標本展
示を大学祭の際に見に行き、ヒサマツミドリシジミの標本を見せてもらった。後翅裏面のVサインはこの時初めて教わっ
た。ほどなくヒサマツミドリシジミの生活史が解明されたとの記事が新聞に掲載され、あのチョウがそんなに珍しいもので、さらにそれが京都にいることを知っ
て驚いた。京都北山の杉峠がヒサマツミドリシジミの聖地だとは、中学生の私は知る由もなかった。私より5歳〜10歳上の世代はそれまで未知だった日本の
チョウの生態が続々と解明された黄金時代を過ごされたと思う。交通も不便で未開拓な場所が日本にたくさん残っており、そこでの採集と観察によって得られた
新しい知見は山のようにあった。
現
在はどうだろう。昆虫少年はい
なくなって久しいし、大学の理学部生物科学科に昆虫が好きで入学する学生など一人もいない。身の回りの昆虫は極端に少なくなり興味の対象そのものが身近に
いなくなった。地元同好会や博物館が昆虫採集会を開催しても、簡単には新たな知見が得られなくなった昆虫を採集する意義もその楽しさも子供達に伝えること
ができない。黄金時代の大人たちは、自分たちが楽しんだ思い出をそのまま引きずって、同じように子供達を巻き込もうとしている。子供達が身の回りの昆虫を
採集して疑問に思うことのほとんどはすでに大人達が明らかにしてしまった。これでは昆虫少年は育たない。昆虫少年から理科好きが生まれ、科学者が生まれる
という道筋はもう存在しないように思える。
で
は何をすればよいだろうか。昆
虫を採集し形態の細部を調べて分類したり、地域によってわずかに異なる斑紋の違いを調べたり、いつどこに何が何頭いたかを調べたりするような、従前の昆虫
研究は面白くないのである。私は実験だと思う。子供は理科実験が大好きである。大学の公開講座の時には小さな簡単な実験でも子供達の参加希望者が殺到し、
キラキラ輝く目を見ることができる。潜在的には昆虫好きの男の子はたくさんいるので、大人が次のような指導をしてみてはどうだろう。野外の体験で不思議だ
と感じた事柄を大切に書き留めておかせる。不思議な事柄の生じる理由やメカニズムについて仮説を立てさせる。仮説が正しいことを示すにはどのような実験を
したらいいか考えさせる。同好会や博物館は子供達に自宅で実験させ、月に1、2回実験の指導を行なう。
高
価な装置や材料を使わず、自宅
でできる実験はたくさんある。最近そのことを自身で示されたのは平賀壮太先生である。「アゲハチョウの幼虫は表面がザラザラした場所で蛹化した時に灰色の
蛹となる」という仮説を立て、それを自宅で見事に証明された。実験を論理的に組立てていくプロセスがすばらしい。そこら辺にある材料だけを使って得られた
研究結果が一流の国際雑誌に掲載された。私も授業や会議に行く時に大学のキャンパスを歩くだけで、不思議に思う事柄にいくつも出くわす。それから立てた仮
説には、例えば次のようなものがある。「ハラビロカマキリの幼虫は黄色い花を選んで集まる」「モンシロチョウの本来の生息地は荒れ地である」「ゴマダラ
チョウの幼虫が樹上越冬するのは木の根元に落葉がない時である」。これらを証明するための実験は少し考えれば組み立てることができる。小学生から大人まで
1人で実験に取り組むことができる。あとはいかにエレガントに確実に証明してみせるかが腕の見せどころである。
高
価なPCR装置やDNAシーケンサーを使うことが優れた研究ではない。一番
必要なのは自然を不
思議に思う感性を養うこと、次に仮説を証明するための実験の組立てを考えられることである。新しい昆虫少年は「採集から実験へ」、それが理科好きを育て、
創造力豊かな科学者を作ることになるのではなかろうか。唯一の危惧は、採集と分類ばかりやってきた大人にこれが本当に指導できるかという点である。
|
八木 孝司
大阪府立大学大学院理学系研究科 教授
|
2011.5.8
No.1
昆
虫研究者はなぜ減少しているか? 大 澤 省 三
このところ、虫好きの若者がだん
だん少なくなくなってきた、という嘆きが方々で聞かれる。日本の山野が開発ラッシュで、虫のすみかが激減したこともあろうが、虫以外の低俗?なゲームの氾
濫なども若者の興味が虫などへ向かなくなったのも一因としてあげられよう。
しかし、私はそれ以外のもっと大
きな原因は、いわゆる我が国の昆虫学のmajorityが、古色蒼然とした記載分類学で占
められていることによる、と思っている。例えば、赤紋を持つ近似種は「斑紋は赤」と書くが、面白いことには、一方の種の赤は色素系、他方は構造色である場
合があるし、同じ黒(または赤)色でも色素が異なるなど、単に記載を読んだだけでは分からない。このような例は他にも山ほどあり、最終的にはこれらの色を
支配する遺伝子の同定とその発現の制御機構を知る必要があることはいうまでもない。このような事実に、昆虫の多様性の一端が隠されており、進化の機構の解
明にも貢献するであろう。今やこれらの解析は可能となりつつある。
これだけ生物学が長足の進歩をと
げ、高校などの教育の場でも、かなり高度な新しい生物学を教えているのだから、よほどの例外を除けば、将来、現在の日本の“純昆虫学”の研究機関に入って
一生をすごそうとする若者が減少し、それに伴い、アマチュアの虫屋の目的意識にも変化が現れるのは当然の帰結である。某全国誌の昨年度の甲虫の回顧の項を
みると、昨年記載された新種のリストが主体で、昆虫DNA研究会で次々とだされる“本当に昆
虫は面白い” と私が思う研究はほとんど出てい
ない。
私は、分類学は必要不可欠なもの
だと思ってはいるが、ここまで進歩した生物学全体からみると、これまでの分類学は10%くらいあれば、昆虫学全体(もっと
一般的にいえば、生物学)からみて十分であると思う。それには、博物館や大学の昆虫研究室の定員を少なくとも数倍に増し、分類学者だけでポストを独占しな
いことが必要である。そうすれば虫好きの若者の多くは、昆虫にはもっと、もっと面白いことが山ほどあるのだから、いろいろな新しい技術や考え方を身につ
け、新しい昆虫学の道へ進みたいと感じるのではないかと思う。私が学生だった頃(60年も昔)、故江上不二夫先生が「今
大勢のひとがやっていることはやるな。自分で面白いことをみつけ、それを面白くせよ」といわれたが、今や昆虫学にとって、これが重要なのである。要する
に、人まねはするな。自分で道を切り開け、ということである。
昆虫の途方もない多様性からみれ
ば、分からないことだらけである。昆虫は全生物のmajorityを占めるのだから、昆虫抜きでは進
化の本質も分からないと思う。このところ、モデル生物を使って、新しい現象や、これまで想像もできなかったような技術がつぎつぎと出てきている。これを真
似しろ、というのではない。若い世代の方はこれらをうまく利用し、改良し、更には自身で独自なやり方を見つけて、面白い虫の世界を現象として見るだけでな
く、どのような仕組みでこのようなことが起きているのか、言い換えれば、現象の本質を解明してほしい。そうなって始めて昆虫学は精密科学が仲間と認められ
るのである。このような観点からみて、昆虫DNA研究会の役割はこれからますますや
大きくなるであろう。
|
大澤 省三
名古屋大学・広島大学名誉教授
|
|
|
|
|